TRONWARE|Personal Media Corporation

TRON & オープン技術情報マガジン

TRONWARE Vol.194

TRONWARE Vol.194

ISBN 978-4-89362-360-7
A4変型判 並製/PDF版電子書籍(PDF版)
2022年4月15日 発売


特集1:DX時代に必要な教育とは

INIADにおけるリカレント教育の考え方とその実践

INIAD(東洋大学情報連携学部)は2017年4月の開学以来、リカレント教育を積極的に進めている。

INIADにおけるリカレント教育の考え方として、まず、社会人教育と通常の大学教育とで同じやり方をしたのでは効率が悪いという点が大前提となる。大学生の本分は勉強だが、社会人には本業がある。大学生と社会人では勉強に割ける時間も学習環境も──さらには学習の姿勢や関心構造そのものが違う。効率的で効果的なリカレント教育を行うなら、社会人向けにカリキュラムやシラバスから緻密に構成しなければならないのは明らかだ。

DXとは、そもそも職務に関する部分を最新のデジタル技術を前提にリストラクチャリング(再構築)することであり、それを行うのは業務に携わっている当事者であるのが望ましい。同様に、リカレント教育にあたってもその業務に関係するデータを例題として示したほうが理解が早いのは当然のことだ。カリキュラムやシラバスだけではなく教科書や教材をすべて作り直すのは容易なことではないが、「学習に王道なし」という理念のもと、既存の学生向け教育を流用するのでなく、リカレント教育の専用教材からプログラムまでを再設計して作り上げるべき、というのがINIADにおけるリカレント教育の考え方である。

INIADで行っているリカレント教育は、個人向けの「Open IoT 教育プログラム」と、企業から社員のリスキリングを請け負う「企業向けオーダーメイド教育」がある。どちらの教育プログラムでも、INIAD教育の基本方針として「反転教育」を採用している。

INIADでは、この反転型の教育を開校時から行ってきた。学生は授業を受ける前にMOOCs(ムークス、Massive Open Online Courses)で学習し、登校しての授業は小教室で行われる。そこでは、教員から学習理解のフォローアップや学生同士も含むディスカッション、機器を使った実習などを集中的に行う。そのためINIADでは独自のMOOCs環境を構築し、教員皆により、すでに10万ページ以上のコンテンツをクラウド内に蓄積している。

Open IoT教育プログラム

「Open IoT教育プログラム」は、高度なIoT技術を身につけたい社会人を対象にしてIoT関連分野の体系的な知識とスキルを短期間で習得できるように設計された、学び直しのためのパッケージ化されたコースである。対象はプログラミング経験のある社会人で、たとえばUNIXでの開発経験はあるがTRONは知らないという人に、エッジノード側の組込みOSを学んでもらう。また、従来型のスタンドアロンの組込みシステム開発には慣れていてもIoTで必要となる技術には不慣れという方には、IoTで必要になるインターネット接続、クラウド連携、セキュリティなどを学べるように考えられている。

コース最後の実習では、ネットワーク接続したIoT-Engineを搭載し運転制御できるように改造したラジコンカーであるT-Carを題材にする。T-Car上に、各種センサーからのデータとネットワーク通信での指示などを受けて制御するリアルタイム運転プログラムを作成するのが課題となる。これを搭載した各自のT-CarをINIADのテストコースで実際に動かしての講評も行われる。

Open IoT 教育プログラム 2022年度 受講生募集
https://enpit.iniad.org/

企業向けオーダーメイド教育

「企業向けオーダーメイド教育」は言葉どおり企業側が目的とする社員教育にオーダーメイドで対応するコースである。INIADの教育リソースでできる範囲なら、コンピュータやデジタルに関係するあらゆる分野を扱う。たとえば、デジタルビジネスでの知的所有権戦略から新規ビジネスモデルの構築、システム開発のプロジェクトマネジメントやクラウド利用、AIからUXデザインまで幅広い。教育を依頼してきた企業とともにカリキュラムデザインを行うところから始めるが、オーダーメイド教育を謳っているように企業側の要望にできる限り合わせることを特徴としている。

INIADでは、毎年5社程度のリカレント教育を行っている。ステップとしては、まず対象とする社員のレベル(スタートポイント)と、そこからどういったスキルを持つ人材を育てたいかというターゲットをお聞きする。そして、開講時期のスケジュール、INIADに登校してのリアル授業とネットワーク授業、またeラーニング教材による自習などの時間配分の可能性などを伺う。こうして、カリキュラムや授業スケジュールを調整していく。

2021年3月のINIADの第一期卒業生は282名だったのに対して、同じ年のリカレント教育は414 名が修了。その意味でINIADでは、リカレント教育が学生への教育に並ぶ大きな社会的機能として認知されている状況だ。少子高齢化が進み、また社会のDX化が喫緊の課題である日本において、この傾向は大学の社会的機能として一般的になっていくだろう。

オーダーメイド教育

特集2:組込みOS

はじめてのT-Kernel~T-Kernelの基礎知識~

T-KernelやμT-Kernelの技術を理解してソフトウェアを開発するには、仕様書やソースコードを読むのが一番だ。しかし、膨大な情報量のある仕様書やソースコードを読んで理解するには時間がかかる。そこで、短時間でT-Kernelを知るための手ほどきとなるように、T-Kernelの開発の経緯や基本的なシステム構成、技術用語など、仕様書の理解に役立つ基礎的な知識を本稿にまとめた。リアルタイムOSや組込みプログラミングの経験はあるものの、T-KernelやμT-Kernelは初めてという読者は、仕様書やソースコードの前にぜひご一読いただければと思う。

新連載:誌上セミナー μT-Kernel 3.0でIoTエッジノードを作ろう 第1回 μT-Kernel 3.0とIoTエッジノード

本連載ではオープンソースのリアルタイムOS μT-Kernel 3.0 と市販のマイコンボードを使って、実際にプログラムを作って実験しながら、IoTエッジノードのプログラミングについて学んでいく。

第1回は、IoTエッジノードのプログラミングを始めるにあたり、IoTエッジノードやμT-Kernel 3.0 に関する基礎的な事項を説明する。

また、本連載では市販のマイコンボードを使用してセンサーノードとよばれる基本的なIoTエッジノードを作っていくため、開発するIoTエッジノードについての概要とμT-Kernel 3.0の入手までを説明する。

T-Kernel とμT-Kernel の展開

特集3:公共交通オープンデータ

公共交通オープンデータ協議会の活動の近況~日本の公共交通データの連携プラットフォームの実現に向けて~

公共交通オープンデータ協議会(ODPT)は、公共交通事業者やICT事業者を中心に構成される、産官学連携の協議会である。2015年の設立以降、複雑な日本の公共交通におけるデータ流通プラットフォームの実現を目指し、活動を行ってきた。

早くから公共交通機関の民営化が進んだ日本では、公共交通データのオープンデータ化が進まず、そのことが公共交通利用者の利便性を下げる一因となっていた。ODPTは、東京オリンピック・パラリンピック競技大会が予定されていた2020年を目途に、公共交通データのオープン化を通じて、国内らの多様な来訪者が、複雑な東京の公共交通機関をスムーズに乗りこなせる状況を実現することを目指して活動してきた。2022年のいま、東京オリンピック・パラリンピック競技大会やコロナ禍を越え、「公共交通オープンデータセンター」を軸に、日本における公共交通データ連携のプラットフォームを実現しつつある。

本特集では、これまでのODPTの活動を振り返り、アプリケーション・コンテスト「東京公共交通オープンデータチャレンジ」の成果、そして「公共交通オープンデータセンター」の活動と今後の展望について、さらに会員各社による公共交通オープンデータ活用事例を紹介している。

TIVAC Information:既知の攻撃に使われた脆弱問題のリスト/組込みシステムの悪意ある改竄

米CISA(Cybersecurity and Infrastructure Security Agency)が、これまでのサイバー攻撃に使われてきた既知の脆弱性のカタログを作った。この中には組込みシステムも報告されているが、上記のリストには、攻撃に使われたことが明らかになった脆弱性しか含まれていないことに注意する必要がある。これからも未知の脆弱性を使った攻撃が絶えることはないだろう。少なくとも攻撃に使われた既知の脆弱性に対応しない組込みシステムをネットワーク環境で利用することは、市場で存在を許されない。一度はこのリストの内容確認が必要だ。

未知の脆弱性に対応するためにどのように組込みソフトウェアにパッチを当てるのかについては、ロシアのウクライナ侵攻後に、正体不明のハッカー集団Anonymousがロシアの情報インフラに対してハッキング宣言をしたという報道があった。それと関係しているかどうかわからないが、ロシアにある電気自動車の電力供給スタンドに表示されるメッセージが書き換えられたというニュースもあった。ウクライナを支持して、ロシアを非難するメッセージが表示されたとのことだ。現在の所有者が許可をしたと思えない状態で、何者かが組込みシステムのソフトウェアを書き換えてしまったことは問題が大きい。場合によれば電源供給部分のプログラムを書き換えて発火したり、つないだ車に不都合が起こるようにしたりする悪意ある変更も可能だったのかもしれない。

まさにサイバー戦争を地でいくニュースだ。組込みシステムをリリースし、脆弱性対策のためにそのファームウェアの更新をどうするかと悩んでいる人々には考えさせられることが多い事例だ。

From the Project Leader
プロジェクトリーダから

最近我が国でもDX(デジタルトランスフォーメーション)に関心がもたれるようになり、あらゆる分野でのDXがようやく始まってきたように思える。コロナ禍での経験もあり、今の日本においてもDX化を進めることはとても重要だということが理解されたからだろう。

DXというのは、これまでのしくみや制度などを全部見直して、最新のコンピュータテクノロジーを最大に駆使して、新しいやり方で物事を進めることだ。したがって、その最新テクノロジーをきちんと理解して扱えることはDXの当然の前提条件である。

ところが残念なことに、我が国は義務教育をはじめとして情報教育で遅れてしまったために、情報系の技術者の人材が足りていない。特に情報系の大学の卒業生は他の分野と比べても非常に少ない(そもそも少子高齢化が進む日本では若者の数自体が減ってしまっている)。今我が国は、優秀な人材は取り合いになってしまい、どの組織も十分な人員が確保できていない、という困った状態になっているように思う。

もちろん外国から必要な人材をどんどん集めてくるという対策もあるかもしれないが、やはり日本という国にとっての王道はリカレント教育——再教育によって人材を確保していくことである。DXによって今の仕事のやり方や制度を見直すには、DXを推進する中核の人間が今の仕事をよく理解していることも条件の一つである。つまり、実務がわかっている人に対して情報の再教育をすることが、いちばん効率的というわけだ。

そこでINIAD(東洋大学情報連携学部)では、創設以来5年にわたり、リカレント教育に関するさまざまなプログラムを用意し、継続して実施してきた。このプログラムの中核になっているのがINIAD cHUB(東洋大学情報連携学部・学術実業連携機構)である。最初の特集では、今私が最も重要だと考えているリカレント教育に関して取り上げ、INIAD cHUBでどのようにリカレント教育を進めているかについて紹介している。

我が国においては、リアルタイムプログラミングに対しての教育の場が非常に少ないという課題もある。そこで、INIAD cHUBではTRONを使ったリアルタイムプログラミングの教育も行っており、たいへん好評である。組込みシステム向けのリアルタイムプログラミングは情報処理のプログラミングとは性質が異なるので、特集2ではリアルタイムOSの入門編として、TRONの組込み向けOSであるT-Kernelの特徴やプログラミング手法について解説した。

3番目の特集は公共交通オープンデータである。広く情報処理システム全体を見直している中でもオープンデータに関しての関心は高まっているが、公共交通分野におけるオープンデータ化は特にここ数年で大きな成果を出している。そこで、公共交通オープンデータ協議会(ODPT)のこれまでの活動状況を整理し、さらに会員各社による公共交通オープンデータ活用事例を紹介した。

本号は教育を中心とした3本柱で特集を組んだ。新年度を迎えて新しいことにチャレンジしたいと考えている方に、最近のTRONプロジェクトの取り組みについて興味をもっていただければ幸いである。

坂村 健

編集後記特別編

情報教育の逆襲

今の中学3年生が高校に入る今春から新しい高校の学習指導要領が実施される。「情報Ⅰ」が必履修科目になり、その新指導要領で学んだ生徒たちが受ける2025年の大学入学共通テストでも出題されることが決まっている。

実は2003年度の指導要領改訂のときから、すでに情報の教育自体は必修化されていた。筆者も長く高校の情報教科書にも関わっているので、現在の高校での情報教育は──広く浅くではあるものの──現代人に必要な情報通信技術に関する教養が十分に身につくものになっていると自負している。しかし大学入試で必須ではない学科については、本腰を入れられないというのが高校側の本音。

今までは情報モラルを学ぶ「社会と情報」と、プログラミングを学ぶ「情報の科学」が選択となっていたため、多くの高校は教えやすい「社会と情報」を選択しており、生徒の8割はプログラミングを学んでいないという実情があった。

限られた教育リソースをどう配分するかということで、そのこと自体の是非は問わないが、私のように大学で情報を教える側にとっては、新入生はプログラミングはおろか「情報」の基礎レベルも学んでいないという前提で始めざるを得ないのが今までの状況だった。

しかし、今やプログラミングは「文理問わず必要な教養」、「大学教育を受けるうえで必要な基礎能力」となったということで、高校の情報教育を本格化させるために、入試とセットでの必須化となったわけだ。

教師確保の難しさ

本腰を入れざるを得なくなったことで、この分野を教えられる教師の不足が問題になっている。特に必須化される「情報I」では原則プログラミングの課題があり、求められる教師側の専門性は高くなる。

しかし、現在「情報」を教えている公立高校の教員の4人に1人ほどは「情報」の免許を持っておらず、数学や理科などの教員が掛け持ちしているのが現状だ。さらに、専科でない教員だと準備に十分な時間を割けないという問題もある。「社会と情報」しか教えてこなかった教員の中には、今後プログラミングまで教えることになって不安を感じる人が少なくないともいう。

国語や数学、英語といった主要教科と違い、各教育委員会が「情報」専科の教員を積極的に採用してこなかったツケが、ここにきて出てきたわけだ。

インターネット世代の若い先生なら、基本的な情報機器の利用法程度は問題ないにしても、学科として情報を──特にプログラミングを教えられるとなると、それなりの訓練が必要だ。プログラミング教育に本腰を入れるというのは、世界の先進国の中で日本は出遅れたほうだが、先行した他の国でも教師の確保が最も困難で時間がかかっている。残念ながら日本は、その他国の教訓と、遅れたことによる準備の余裕を有効に使ってはこなかった。とはいえ、それは今更──情報教育がすでに機能している他国と、これからの日本は伍していかなければならない。

教師の促成栽培とはいかない以上、既存の人材を利用するしかない。退職技術者と正規の教師のペアも考えられるが、小学校ならいざしらず、高校のプログラミングとなると退職技術者なら大丈夫、とはいかない。プログラミングの世界はここ十数年ほどで大きく変わっており、モダンなスタイルのプログラミングには「まず仕様書をきちんと」のような、古い常識が邪魔になるからだ。

教育資源のクラウド化を

一つ言えることは、少ない資源でペースアップするには、教育のやり方の常識にとらわれず、教育自体をDXすることだろう。INIAD(東洋大学情報連携学部)では、コロナ禍以前からネット教材での教育パッケージ化、Web会議システムによるリアルタイム指導とチャットベースの随時指導、さらに対面のディスカッションや実習を組み合わせた教育を行ってきた。コロナ禍により、いやおうなく遠隔教育の導入が進んだ現在、同じようなやり方を高校で導入するのは不可能ではない。その場合、教育リソースは教師陣を含め遠隔で──いわばクラウド化できる。

学校規模で教員数は決まっており、他教科との関係で地方の1学年1クラスのような小規模校では、週2コマの授業しかない「情報Ⅰ」に専科の教員を置けなかったのが、先の情報専科教員の採用のネックだという。

ならば、プログラミングの教育人材については自治体単位の教員採用をやめ、いわば教育のクラウドセンターに集約すればよい。もちろん物理的に集める必要はない。なぜなら、センター自体が教師を必要とする教育現場と教育リソースのマッチングを行う、いわば仮想的なサービスセンターとしての存在だからだ。

このような改革は、教育委員会に関わるため自治体の長ですら手をつけられない。多くの法改正が必要かもしれない。ならば、現場の正規の教師が「センターの教育リソース」を補助的に利用しているだけ──というような建前でもいい。とにかく、少子高齢化の日本を背負いこれから世界と戦わなければならない若い世代にとって残された時間は少ない。ぜひ教育のDXを真剣に考えてほしい。

ハイブリッド戦争を超えて

ネットワークが生む共感

今回のウクライナ侵攻に対する世界の反応について、アラブ系のマスコミの論評や、欧米や日本でもネットの一部で「人種差別があるのではないか」という意見がある。

今回と似たロシアの軍事行動がアフガニスタンやシリアで起こっていたとき、今の先進諸国で巻き起こっているような大規模な報道も、共感と支援の波もなかった。ウクライナからの難民と中東地域からの難民への欧州各国政府の扱いも大きく異なる──差別だ、というわけだ。

そこに人種差別意識が1ミリもないと言い切ることは残念ながら不可能だろう。しかし、日本人の反応についていうと「人種」というより「文化」をベースにした共感の方が大きいと思われる。避難民のファッションや子どもたちの持つ玩具、破壊されたカフェのインテリア──そうした昨日見たようなあれこれが、明日は我が身を思わせるからだ。そして、そういう共感をすばやく作り出したのが、ウクライナから日々大量に発信されるツイートや動画だ。

戦争の行方を左右した情報というのは、ベトナム戦争で焼かれた村から泣きながら逃げてくる少女や、クウェート侵攻時の油まみれの海鳥の写真まで、いくつもある。

しかし、それらが戦場写真家からマスコミに渡り──と、いくつもの人の手を経て広く皆の目に留まるのに比べ、今回のウクライナ侵攻では現地の人の携帯からそのまま伝わってくるから、量も即時性も段違いだ。

さらに言えば、実用的な自動翻訳が気軽に使えるようになった初めての戦争というのも特筆すべきだろう。今の私のSNSのタイムラインには、英語どころかキリル文字やアラビア文字まで並んでいる。それらがボタン一つできちんとした日本語になる。だから日本人が日本語でポストした応援メッセージにウクライナ語の感謝のレスが付き、それにロシア語が続いたりする。

現代戦争における情報

現代の戦争は物理的な正面戦力や兵站は当然として、外交や報道面での情報操作、さらには欺瞞情報の展開やサイバー攻撃まで、情報空間から認知空間までを含む多層的な戦場で戦われる。それらをいかに有機的にリンクするかが勝敗の決め手──ということで「ハイブリッド戦争」などと言われている。

過去にも謀略は戦争につきものだったが、現代戦では特に情報の力が強い。だからこそ先に上げたクウェート侵攻では、アメリカを参戦させるため、代理店の仕込みで「イラク兵の残虐行為の証言をする少女」まで用意された。ことほど左様に、情報戦は軍事的に行う意識的な戦いであり、組織が行うものだった。

実は、この「ハイブリッド戦争」という概念が最初に注目されたのは2014年。ロシアがウクライナの内乱時に、短期間であまりにうまくクリミア半島を占領し世界に認めさせてしまった、その成功の理由を説明するために、軍事専門家が言い出した用語だ。

そのハイブリッド戦争の先駆者のロシアが、皮肉なことに今回は情報空間でウクライナに圧倒的に負けている。2014年にはロシアが行ったインターネット遮断もできていない。逆に言うと、ウクライナは2014年の反省で、情報面を含むハイブリッド戦の防衛体制を構築し、徹底的に鍛えていたのだろう。

今回の世界の反応を引き出したのが、人種差別などでないというのは、クリミア半島の時との世界の反応の違いで明らかだろう。侵攻した側の人種も、された側の人種も同じ。違いはウクライナ自身が整備してきた情報戦体制の高度化の結果によるということだ。

ハイブリッド戦争を超えて

一方、クリミア半島での成功で慢心し、数日でキーフを落とせると思っていたロシアは、予想に反する醜態を見せている。開戦当初、対空ミサイルやレーダーサイトの破壊された映像とともに、ウクライナの防空体制は破壊されたというニュースが流れた。制空権を得たロシアの進軍は止められない──世界もロシア自身も思い込んだ。そのこと自体が、ウクライナの側の情報戦だったという説もあり、ロシアはある意味うかつに進軍したことになる。欧米諸国の空中早期警戒機とドローンからの情報支援を受け、高性能のミサイルを携帯する歩兵が土地勘のある平原に分散している戦場では、従来的な制空権や戦線の概念は通用しないことを、進軍したロシアは思い知ることになる。

認知領域戦でも、湾岸戦争時に代理店が用意した少女のような「プロ仕込みのキラーコンテンツ」ではなく分散の時代。ウクライナ国民一人ひとりの掌からの発信が戦局を左右している。

とはいえ、それらも強い意志と抵抗により時間を味方につけられなければ無になる。核を持つ常任理事国なら力で世界を思いどおりにできる、という悪しき前例をつくらないため、ウクライナの人々は折れない意志と行動で──いわば世界のために戦ってくれているともいえる。一人ひとりにできることが情報を送ることだけだとしても、その情報が集まって世界を動かす──そういう希望がネットワーク時代の一つの側面だと信じたい。

坂村 健

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