TRONWARE|Personal Media Corporation

TRON & オープン技術情報マガジン

TRONWARE Vol.193

TRONWARE Vol.193

ISBN 978-4-89362-359-1
A4変型判 並製/PDF版電子書籍(PDF版)
2022年2月15日 発売


特集1:2021 TRON Symposium「Rebooting」

TRON プロジェクトの1年の総決算であるTRON Symposiumが2021年12月8日から10日までの3日間にわたって開催された。

今回のテーマは「Rebooting」。坂村健教授の基調講演では、社会のRebootingを推進していくためにTRONプロジェクトが進める研究開発やその成果について解説が行われた。コロナ禍で疲弊した社会をRebootingによって元に戻すのではなく、状況に応じてすばやく変われるシステムを確立していくことが重要であり、そのためにはデジタル技術により多くの人が連携するための基盤(プラットフォーム)の構築が何より欠かせないことが強調された。TRONプロジェクトでの具体的な成果として、TRONビルOS、UR都市機構とのOpen Smart URプロジェクト、認証と個人情報を扱うAIoTSの活動などが詳しく解説された。さらに、センチメートル級の位置測定ができる準天頂衛星「みちびき」へのTRON技術の応用、ヘテロジニアスなマルチコアプロセッサに対応するTRON FOSなどが紹介された。

講演・セッションでは、社会をRebootingしてDX(デジタルトランスフォーメーション)を実現するための、さまざまな基盤技術や応用技術が紹介され、今後の展望が語られた。

展示会場では、企業、政府、国内外の研究機関によるIoT関連機器の展示やソリューションの紹介、デモンストレーションなどが行われた。

各講演・セッションの概要はTRON Symposium公式サイトの「講演・セッションスケジュール」(https://www.tron.org/tronshow/2021/regist/schedule/?lang=ja)で確認できるほか、TRONWARE VOL.193では全講演・セッションの報告記事を掲載している。

基調講演「Rebooting」TRONプロジェクト2021

2021年12月8日(水)10:30~12:00 展示会場シアター
坂村 健(INIAD(東洋大学情報連携学部)学部長、YRPユビキタス・ネットワーキング研究所長)

坂村教授は基調講演の冒頭で、2021 TRON Symposiumのテーマ「Rebooting」に関し、会場エントランスのキービジュアルがスタンリー・キューブリック監督のSF映画『2001: A Space Odyssey』(2001年宇宙の旅)へのオマージュになっていることを紹介。2019年から最近まで多くの社会活動が停滞していたが、日本でもコロナ禍をきっかけとしてDXを進めていくために、社会全体の活動のRebooting(再起動)が必要とされていると主張した。

そして、デジタルテクノロジーを活用して「すばやく変われる」社会を作っていくために、プラットフォーム志向で環境を構築していくことの重要性を説き、INIADやTRONプロジェクトを中心として進めているさまざまな取り組みを、実例とともに紹介した。

最後に、2021年のTRONプロジェクトの活動を本シンポジウムの講演や展示内容とあわせて紹介し、「TRONプロジェクトは開発環境やプラットフォームを作るということに長い間力を入れてきたので、OSの概念をもっと広く捉えることによって、新たな展開でTRONプロジェクト自身もRebootingしていきたい」と締めくくった。

DX特別セッション:社会全体の「Rebooting」に向けてICTが果たす役割

2021年12月8日(水)13:00~14:30 展示会場シアター
コーディネータ:坂村 健(INIAD(東洋大学情報連携学部)学部長、YRPユビキタス・ネットワーキング研究所長)
登壇者:大野 誠(インテル株式会社 執行役員 新規事業推進本部 本部長 兼 経営戦略室室長)
受川 裕(日本電気株式会社 執行役員)
田丸 健三郎(日本マイクロソフト株式会社 技術統括室 業務執行役員)

今回のコロナ禍において、社会全体に大きな停滞感が漂っているのは否めない。しかし、その一方でリモートワークなどICTの活用により業務のやり方が大きく変わり、今までできなかったことが可能になってきている。

DX特別セッションでは、インテル、NEC、マイクロソフトという世界をリードするICT企業の方々が登壇し、今課題となっている社会全体の「Rebooting」に向けての対応について、各々の取り組みを紹介した。さらに、坂村教授と登壇者によるディスカッションでは、ネットワークセキュリティにおけるプライバシー、個人情報の取り扱いについて議論が交わされた。

VLED特別セッション:地方創生のRebooting

2021年12月8日(水)15:00~16:30 展示会場シアター
コーディネータ:坂村 健(VLED理事長)
登壇者:喜多 功彦(内閣府地方創生推進事務局 参事官)

現在わが国は少子高齢化、気候変動、社会インフラの老朽化など多くの課題を抱えており、都市への過度の人口集中に対する地方創生も大きな課題の一つである。新型コロナウイルスの収束を見据えて再度地方創生への機運は高まっており、同時にコロナ禍への対応は行政DXの必要性も示すこととなった。

VLED特別セッションではDXを活用したスマート行政推進を支援するVLED(一般社団法人オープン&ビッグデータ活用・地方創生推進機構)の取り組みや、住民と企業が連携してAIやビッグデータ活用による先進的サービスを実現するスーパーシティについて紹介が行われた。

INIADの今と、リカレント教育

2021年12月9日(木)10:30~12:00 展示会場シアター1
コーディネータ:坂村 健(INIAD(東洋大学情報連携学部)学部長、YRPユビキタス・ネットワーキング研究所長)
登壇者:別所 正博(INIAD(東洋大学情報連携学部)准教授)
矢代 武嗣(INIAD(東洋大学情報連携学部)准教授)
淺野 智之(INIAD(東洋大学情報連携学部)助教)

現在、多くの組織でDX(デジタルトランスフォーメーション)の実現が大きな課題となっているが、この背景にはドッグイヤーともよばれるように急速なICTの進展がある。企業がデジタルにより新たな方法で課題解決を行うための基盤が整いつつある一方で、そのような最先端技術に精通した人材の育成は容易ではない。

本セッションでは、TRON プロジェクトが培ってきた知見を生かし、ICTで社会の課題を解決できる人材育成に取り組んできたINIAD(東洋大学情報連携学部)の現在と未来について発表が行われた。

坂村教授は、これまでの4年間の知見をふまえINIADをバージョンアップして、より質を重視した教育の実現を目指すとし、新しいカリキュラムの概要を発表した。また、INIAD cHUB(東洋大学 情報連携学 学術実業連携機構)を中心とした取り組みとして、IoT時代の社会人のための「学び直し」プログラムとして文部科学省から採択された「Open IoT教育プログラム」や、オーダーメイド型のリカレント教育プログラムなどの成果を紹介した。

Open Smart UR

2021年12月9日(木)13:00~14:30 展示会場シアター1
コーディネータ:坂村 健(Open Smart UR研究会 会長)
登壇者:尾神 充倫(独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)本社 技術・コスト管理部 担当部長)
米澤 武久(独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)本社 技術・コスト管理部 ストック設計課長)

Open Smart UR研究会は、2019年4月から未来の住まい方ビジョン、未来の団地をテーマとしたプロジェクトを進めている。そしてその成果となるモデル住戸が2022年春に完成し、2022年度半ばより実際に人が住んで各種データを取る実証実験が始まる。モデル住戸は4タイプ作られ、約70社からなる研究会のメンバーが「住まい」連携プラットフォーム上で、情報連携、データ連携などの実証実験を行う予定となっている。

本セッションでは独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)の尾神充倫氏と米澤武久氏が登壇し、モデル住戸の概要、実現のための技術、予定されている実証実験などについて紹介した。

IoTエッジノード向け世界標準RTOS「μT-Kernel」の新たな展開
~ヘテロジニアスマルチコアプロセッサへの対応~

2021年12月9日(木)14:45~16:15 展示会場シアター2
コーディネータ:松為 彰(トロンフォーラム T3WG 座長代理、パーソナルメディア株式会社 代表取締役社長)
登壇者:早川 剛(NECソリューションイノベータ株式会社 デジタル基盤事業部 シニアプロフェッショナル)
諸隈 立志(ユーシーテクノロジ株式会社 代表取締役)

家電などの身近な機器から、各種の車両、人工衛星に至るまで幅広い機械や装置に組み込まれ、刻々と変化する状況をセンシングしながらリアルタイム制御する組込みOSは、いわば縁の下の力持ち的な存在であり、産業上ますます重要になってきている。一方、昨今ではさまざまな分野で機械学習や画像処理など高度な情報処理に対する要求が増えており、リアルタイム処理と高度な情報処理をワンチップでこなすことのできるbig.LITTLEマルチコアプロセッサへの期待が高まっている。

本セッションでは、big.LITTLEチップ上で、“リアルタイムOS(RTOS)のμT-Kernel”と“アプリケーションOSのLinux”を同時に動作させる非対称型マルチプロセッシングの議論を中心に、最新のμT-KernelやIoT技術のスマートビルへの応用などについて紹介。その可能性が模索された。

ニューノーマル時代を支える「三密」回避技術

2021年12月9日(木)15:00~16:30 展示会場シアター1
コーディネータ:別所 正博(INIAD(東洋大学情報連携学部)准教授)
登壇者:齋藤 勇太(東京メトロポリタンテレビジョン株式会社 放送本部編成局総合戦略部長)
山岸 祥晃(凸版印刷株式会社 DXデザイン事業部 ビジネスアーキテクトセンター 事業企画本部 本部長)
渡邊 徹志(株式会社MaaS Tech Japan CTO)

日本社会を突如襲ったコロナ禍では、我々の社会生活を持続させるために、ICT(情報通信技術)を活用した多くの取り組みが行われた。この中で特に注目されたのは、携帯電話の基地局情報を用いた人流データが各種報道で活用されるなど、「三密」とよばれる状況を回避するための技術である。

TRONプロジェクトにおいても、COCOA(新型コロナウイルス接触確認アプリ)の電波を観測し混雑状況をリアルタイムに検出する技術を開発し、TOKYO MXへのデータ提供や自治体への技術提供などを行っている。

本セッションでは、ニューノーマル時代の「三密」回避のためにICTを用いて何ができるのかについて、INIADの別所正博氏がゲストを迎え、三者三様の取り組みが紹介された。

テクノロジセッション:場所・位置情報を活用した技術と最新応用事例

2021年12月10日(金)10:15~11:45 展示会場シアター2
コーディネータ:諸隈 立志(準天頂衛星WG座長代理、ユーシーテクノロジ株式会社 代表取締役)
登壇者:浅里 幸起(一般財団法人宇宙システム開発利用推進機構 利用開拓部長)
峯岸 康史(ユーシーテクノロジ株式会社 ユビキタス事業部部長)

人やモノが時空間上のどこにいるのかという位置情報の応用は、スマートフォンによるナビゲーション、車のナビゲーション、ドローンの制御、農業機械の自動運転など屋外での実用化が進んでいる。その一方、屋内の位置情報についても、フリーアドレスのオフィスやロボットと人が共存する場面での応用への期待が広がっている。

本セッションでは、場所や位置を認識する技術やその応用について、準天頂衛星システム「みちびき」を利用したセンチメートル級の衛星測位技術や、場所情報を活用したアプリケーション「ココシル」、スマートビルにおける位置情報の活用方法などの最新技術を紹介。さらに今後の応用可能性へと議論が展開した。

TRONイネーブルウェアシンポジウム TEPS 34th「デジタル技術を活用した聴覚障碍者への情報保障とその課題」

2021年12月4日(土)14:00~17:00 オンライン開催
基調講演:坂村 健(INIAD(東洋大学情報連携学部)学部長、TRONイネーブルウェア研究会 会長)
講演:佐野 雅規(NHK放送技術研究所 スマートプロダクション研究部 上級研究員)
長谷川 洋(NPO法人日本聴覚障害者コンピュータ協会 顧問、NPO法人全国文字通訳研究会 理事、ろう・難聴教育研究会 会長)

TRONプロジェクトは「コンピュータはすべての人のために役立つ」という信念のもと、障碍者や弱者の援助に対する研究を長年続けてきた。

34回目のTRONイネーブルウェアシンポジウム(TEPS)は、TRON Symposiumに先立ち、2021年12月4日にINIADホールの会場とオンラインでのハイブリッドで開催された。「デジタル技術を活用した聴覚障碍者への情報保障とその課題」をテーマに講演とパネルセッションが行われた。「情報保障」とは、身体的なハンディキャップによって情報が得られない人に対して、代替手段を使って情報を伝えることを保障することだ。

坂村健教授の基調講演では、聴覚障碍者にとっての情報的な問題として「放送の視聴」「他人とのリアルタイム対話」「環境からの情報通知」「手話インタフェース」の4点を列挙。メタバースの実用化が進めば、眼鏡型のARデバイスを装着することでコンピュータからの情報を実際の空間に表示させることができるようになるため、手話の自動翻訳等とあわせて、聴覚障碍者の情報取得をめぐる状況も改善されるのではないかとの期待が述べられた。

NHK放送技術研究所の佐野雅規氏とNPO法人日本聴覚障害者コンピュータ協会顧問の長谷川洋氏からは、デジタル技術の普及により情報保障のための技術開発も進んでいる一方で、法律の制限によって技術的には提供可能な情報保障が実施できない事例などが紹介され、後半のパネルセッションでは活発な議論が繰り広げられた。

特集2:第4回 東京公共交通オープンデータチャレンジ

多数の公共交通事業者やICT事業者が参画する公共交通オープンデータ協議会(ODPT)は、2019年11月より「第4回 東京公共交通オープンデータチャレンジ」を開催し、東京におけるスムーズな移動と快適な滞在を実現するアプリケーションを広く募集した。そして、2021年12月10日に2021 TRON Symposium会場の東京ミッドタウンホールにて、入賞者の発表と表彰式が行われた。

表彰式では主催するODPT会長の坂村教授からコンテストの概要説明に続き、共催の東京都副知事の宮坂学氏、国土交通省の櫛田泰宏氏らによる挨拶が行われた。

国内外から約1,500件の開発者登録が行われ、厳正な選考を経て応募者の中から最優秀賞、優秀賞、審査員特別賞、そして各団体が贈る特別賞がそれぞれ選出された。また、第4回より営利企業の運営するサービスでの活用も可能になったことにより、ジョルダン株式会社や株式会社ナビタイムジャパン、Googleなど、錚々たる顔ぶれの企業の参加が実現した。

TIVAC Information:2022年の組込みシステムのセキュリティ状況の展望

トロンフォーラムは、組込みの脆弱性に関して啓蒙するために「TRON IoT脆弱性センター(TIVAC)」を開設している。米国の国防総省や国土安全保障省などから発信される脆弱性に関するさまざまな情報を、トロンフォーラム会員向けに紹介している。また、TRONに限らず組込みシステム全般に対する危険を広く周知するために、トロンフォーラムのウェブサイトやTRONWAREの「TIVAC Information」のコーナーでも概要を紹介している。

2022年は、組込み機器、またはそれに準ずる機器に対する攻撃や悪用はもっと増えると予想している。「それに準ずる機器」というところが肝である。微妙な書き方だが、本誌の読者はコンピュータが組み込まれている機器とそうでないコンピュータの区別はそれなりにしていると思う。しかし一般の人が電子機器にコンピュータが使われているかを正しく認識しているのかは疑問で、たとえば炊飯器にコンピュータが入っているということを意識していない人が多いだろう。オフィスで使う機器でさえ、「あの機器にもそんなネットワークから制御される機能があったの?」という機器は実際に多い。そういった機器への攻撃がこれまで以上に増えるということだ。

実際に問題が起きたときに迅速なパッチの提供を行わないと深刻な事態になりかねないため、製造業者、販売業者、システムインテグレータは、積極的にIoTデバイスやそれに準ずるエッジデバイスのセキュリティ問題の啓発を行っていく必要があるだろう。

From the Project Leader
プロジェクトリーダから

2021 TRON Symposium(TRONSHOW)は、2020年に引き続きニューノーマルなスタイルでの開催となった。今回のテーマは「Rebooting」。Rebootingとは何かについては基調講演でも詳しく説明したが、とにかくすべてをリセットしてクリアにして、もう一回新しい時代に即した新しいやり方でいろいろなことをやっていかなければいけない、ということを象徴する言葉である。今現在TRONプロジェクトで進めているさまざまな研究開発に関しても、Rebootingのきっかけとなるような議論が、今回のTRONSHOWの中でできたのではないかと思っている。最新のテクノロジーに関する興味深い話題を余すところなく伝えるために、本号はかなりボリュームのある一冊となったが、ぜひご一読いただきたい。

基調講演でも話したとおり、TRONプロジェクトというのは組込みOSのカーネルを作るところから始まったのだが、最近はネット環境の整備とともにあらゆるものがネットにつながるという時代になった。そのつながるための基盤をどう作っていくかということが、今TRONプロジェクトでは最大のテーマになっている。そのためには、さまざまな分野に対して、社会システムをはじめとした応用側からの大きな視点がとても重要になってくる。そのため、今回のTRONSHOWでは例年以上に、TRONのリアルタイムOSだけではなく、応用関係の技術にも焦点を当てた講演・セッションが多数行われた。いずれも熱のこもったディスカッションが進められたが、誌面からもその熱い思いが伝われば幸いである。

TRONSHOW最終日には「第4回 東京公共交通オープンデータチャレンジ」の結果発表と表彰式が開催された。東京オリンピック・パラリンピックの開催延期にともない、本チャレンジも応募期間を2年に延長したが、結果としてこれまで以上に完成度の高い作品が数多く寄せられた。さらに今回は営利目的のサービスにもデータを提供したことから商用サービスを提供する会社による参加も実現し、おおいに盛り上がるチャレンジとなった。

TRONSHOWに先立ってINIADホールで開催されたTRONイネーブルウェアシンポジウム(TEPS 34th)では、聴覚障碍者の抱えている情報保障に関する課題と、それを最新テクノロジーで解決するための方策について発表とディスカッションが行われた。法律の制限によって技術的には提供可能な情報保障が実施できない問題については、国をあげて解決していく必要があるだろう。

今回のTRONSHOWもリアルとオンラインのハイブリッドで行われたが、やはり実空間でやることの意義は大きいと実感している。次回のTRONSHOWに関しては単なるハイブリッド開催ではなく、TRONSHOW自体のやり方もRebootingするような新しい工夫を考え始めているところである。ぜひ期待していただきたい。

坂村 健

編集後記特別編

悪意糾弾でなく構造改革を

続く「統計不正」

厚生労働省の統計不正が発覚し、2019年に統計法を所管する総務大臣から全省庁での一斉点検が指示された。それにもかかわらず昨年末、またもや国土交通省で統計不正が発覚した。前回も今回も問題になったのは、統計法でやり方まで厳密に規定されており罰則規定まである基幹統計だ。その意味で、厚労省や国交省で起きたことが「不正」であることは明らかだ。

厚労省のときには多くのマスコミや野党が「統計偽装」と糾弾した。「不正」より強い「偽装」という言葉には、動機として「悪意」の存在を感じさせる。しかし、その糾弾は効果なく、国交省の統計不正は続けられ、今回の発覚となった。その理由は「悪意」を前提とした糾弾が的外れで本質的な改革につながらなかったからだろう。最近の第三者調査の報告にも、大きな「悪意」は確認できなかったとある。

実際そのあたりが見えてきたせいか、今回の国交省のニュースでは、ほとんどのマスコミは表記を「統計不正」に一本化している。今も「偽装」と言い続けているネットの論客や一部マスコミもあることはあるが、それは依然として、経済が上向いたと「偽装」するための「政権の指示」だとか、指示までいかなくても「省庁側の政権への忖度」が裏にあった、といった意図的な「悪意」を決めつけている──決めつけたい人たちだろう。

しかし、実情を知るとそんな大した陰謀はなく、むしろお粗末ともいうべき話。前回も今回も、統計のための企業からのデータの集まりが悪く、政府への報告締め切りまでに結果が出せない。そこで困った宮仕えが、大した誤差にはならないからと正規でない「不正」な方法でデータを「補填」してしまった。さらに悪いことには、そういう「後ろ暗い手法」はきちんと引き継がれないため、サンプル数を1/3にしたのを処理後に3倍するのを忘れるとか、遅れて届いた前年データを今年分に二重計上してしまうとか──失敗が失敗を呼び、統計結果を実態から大きく乖離させてしまった。

さらに時間が経ってからミスに気づいても、黙って3倍するとか、二重計上の量だけ減らすとか、弥縫策がより混乱を呼ぶというお粗末さ。

国の進路を決める重要な羅針盤が基幹統計だ。それが、元データが消され合算の数字しかないため過去の正しい推計も復元できないことになった。過去がわからなければ、今との比較も、未来の推定も不正確になる。わかった時点で正直に報告するべきだったのに、前任者たちのお粗末を表沙汰にする決断ができずに、ずるずると引き延ばしてしまった。そのことに、まったく弁護の余地はない。

善意でなく能力を、さらに構造を

とはいえ不必要な「悪意」の想定は、改善すべき構造的問題を見逃すことにつながる。なぜならそういう考え方は「悪意」の人を追い出しさえすれば、すべてうまくいくという属人的思考になるからだ。実際の行政の失敗の多くは「善意」の欠如でなく「能力」の欠如によるものだ。「あいつらは悪意で、我々は正義──だから我々にやらせてもらえれば、うまくいく」というような話運びは「能力」の有無で評価されたくない側が使うレトリック。

さらに言えば、担当者の一部の「能力」が低くても、それを全体の問題にしないような強靭な構造・制度・組織を作ることこそが重要だ。統計に関して言えば、各省庁の本務に対するような誇りと義務感と専門知識を、数年で異動する担当者が統計業務に持てない、今の構造こそが根本的な問題だろう。

高度な統計学の専門家集団を集め、統計の正しさに誇りを持ち、各省庁に対し毅然と要求できる、独立性の高い国家統計庁を作った方がよいし、事実多くの先進国ではそうなっている。小手先の「悪者」探しでなく、根本改革のための国会審議を。そして統計法の改正を。議論がそういう建設的方向に向かうことを切に望む。

「公平」と「公平」の衝突

公平のための規制が生む不公平

日本人は昔から「不公平」に敏感。レストランで料理を待たされることには我慢強くても、後からの注文が先に出ると大きなストレスを感じる人が多い。ならば日本では広く「公平」が達成されているかというと残念ながらそうでもない。むしろ「公平」のためのルールが他の「公平」を阻害するケースは、他の国より多いのではないかとも思う。

「TRONイネーブルウェアシンポジウム」34回目のテーマは「デジタル技術を活用した聴覚障碍者への情報保障とその課題」。ご自身も中途失聴者である日本聴覚障害者コンピュータ協会顧問の長谷川洋先生のお話を聞き、日本の「公平」のためのルールが持つ問題点について深く考えさせられた。

日本の社会も成熟し「障碍者差別がいけない」というのは常識のはず。ところが基本的人権とも言える「参政権」で、いまだに聴覚障碍者への差別があるという。

たとえば1986年のラジオによる政見放送では、生まれながらに耳が聞こえない「ろう者」が参議院東京選挙区で立候補したが、代読などを認めないということで異例の4分15秒無言の政見放送となったという。さすがに、翌年からは代読が許されたというが、そんな常識的なことも現場で決められないのは、公職選挙法により選挙活動での情報表現方法に強い具体的制限があるからだ。

お金の力で露出を増やすとか表現を飾れる「不公平」がないように情報表現方法を具体的に制限するという「公平」のための規制が、結果として「不公平」を生んだ典型例だ。

文字があっても必要な手話

現在でも、まだまだ問題は多いという。たとえば、選挙公報はネットワークなどが使えない人を含めたすべての人が候補者選定の基礎情報に「公平」にアクセスできるようにということで、紙文書ですべての住戸に配られている。選挙公報も、今ならネットワークで低コストでストリーム配信できるのだから手話も配信してほしい。

ところで、なぜ紙文書ではなく手話が必要かというと、テレビでも字幕があれば聴覚障碍者対応は十分という誤解があるが、文字表記があれば手話は要らないというのは、生来のろう者の方には正しくないからだ。

技術者相手に人工知能の学習過程の比喩で言えば、たとえば公園の鳩を前に保護者が「ハト」という音声を繰り返すことで「ハト」という音が現実の鳩の抽象表現として幼児の脳のニューラルネットワークに学習される。このように音ベースの抽象語彙群で思考できるように育ったのちに、その音を図形シンボルと結びつけ学習したものが文字だ。

一方、ろう者は、音が聞こえないので幼少時に保護者が形作る手話──手のパターンを存在の抽象表現として学習する。そうして育った自然知能は音でなくパターンの連鎖──音ベースの「日本語」ではない「日本手話語」という別の言語体系で思考していると理解すべきだ。

先の音で育った人にとって文字を脳内の音にして解釈するのは容易だが、生来のろう者にとっての文字は、それが日本語であっても「音言語」から「手話言語」に「翻訳」しないと解釈できない、別言語の記述なわけだ。英語で思考できないレベルの日本人が英語の文章を読まされるのと、同じ内容を日本語の音読で聴くのぐらいの違いがある。

逆に中途失聴の方は、文字は読めるが手話は後年の学習になるので慣れない人も多い。同じ聴覚障碍者向けでも、字幕と手話の両方が必要なのだ。

デジタル時代に公平のDXを

そして選挙公報以外の選挙情報というと、政見放送も街頭演説も圧倒的に音声中心。ここでも「公平」のルールが邪魔をする。

1969年にスタートした国政選挙のテレビの政見放送では、1995年にやっと手話通訳は可となったが字幕はダメ。その理由は、スタジオ録画で全部に字幕を付ける体力のない地方民放があるから、選挙区ごとに「不公平」になるという理由だという。現時点でさえ、その理由で衆院比例代表と都道府県知事では字幕は不可だという。

さらに時代に合っていないのが、街頭演説での字幕禁止だ。「選挙運動のために使用する文書図画」の限定列挙にあるのが、ポスターや立て札、ちょうちん、看板のみということで、法改正しない限りディスプレイを使った字幕は不可能なのだ。日本の法体系は大陸法で、「やっていいこと」が書かれたポジティブリストにないことはできない。これは多くの分野で、現代のデジタル時代の足かせになっている。

確かに一昔前なら、街頭演説に字幕を付けるのは、業者を呼んでお金のある候補者しかできない「不公平」な手段だったろう。しかし今は、安いPCとレンタルの大型テレビさえあれば、看板よりもはるかに低価格。むしろ印刷でお金をかけたくないから、ディスプレイやプロジェクターだけで手作り選挙をというのが「市民派」の候補者の本音だろう。デジタルが前提を変え、そのほうが安上がりで効率的なら制度を変えるべき──いわば選挙のDXだ。

昨年10月の国会で「街頭演説で字幕が認められないことは障害者差別解消法に反しているから、早急に改正を」という質問があったというが、政府は及び腰だったという。選挙法改正は政治家にとってパンドラの箱。いじりたくないのはわかるが、時代が変わって「公平」のルールと「公平」の実情が衝突しているなら、そういうときこそ政治家の出番だ。この件は、国民に聞けば左右に関係なく誰でもが賛成する案件。ぜひ国会審議をお願いしたい。

坂村 健

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