TRONWARE Vol.192
ISBN 978-4-89362-358-4
A4変型判 並製/PDF版電子書籍(PDF版)
2021年12月15日 発売
特集 2021 TRON Symposium プレビュー
TRONプロジェクトは、「オープンアーキテクチャ」を哲学にした総合プロジェクトである。TRONプロジェクトでは、組込みシステムだけでなく、政府や自治体、公共交通機関などが保有するデータをオープンにして利活用する「オープンデータ」、メーカーやサービス提供者間の垣根を越えて利便性の高いサービスを生み出す「オープンIoT」を実現するための「オープンAPI」など、多くの領域に「オープン」の範囲を広げ続けている。
2021 TRON Symposium―TRONSHOW―では、こうした「オープン」を実現するための要素技術や、応用例としてのスマートビル、スマートホームなどさまざまなプロジェクトとの連携事例を多数ご紹介する。また今年も、IEEE Consumer Technology Societyの技術協賛を受け、組込みシステム、IoT、AI、オープンデータなどの最先端の各社展示・研究発表を行う。
- 2021 TRON Symposium―TRONSHOW― ウェブサイト
https://www.tronshow.org/
TRONプロジェクト2021
昨年からの新型コロナウイルス感染症も、2021年秋には収束の兆しが見られてきた。今後はコロナ禍で萎縮してしまった社会全体をデジタルの力で「再起動―Rebooting」させ、これまでとは異なる新しい常識、常態―ニューノーマルを確立することが課題となる。
TRONプロジェクトが実現しつつある、身の回りのあらゆるモノや社会サービスが有機的に連携するシステムは、その再起動のための重要な要素技術、基盤技術となるはずだ。2021年のTRONプロジェクトの成果から、ニューノーマルのための多くの応用が見つかるだろう。
IoT-Aggregator
IoTという言葉はいまやすっかり社会に定着しているが、TRONプロジェクトは1984年の開始当初から、コンピュータが組み込まれた身の回りのモノ同士がお互いに連携するシステムの実現を目標としていた。このためにTRONプロジェクトが提唱しているのがAggregate Computingであり、それを実現するしくみがIoT-Aggregatorである。
このコンセプトに基づいたプラットフォームの実展開に向けて、昨年度、INIAD cHUBとUR都市機構が共同で60社以上のメンバーから成るOpen Smart UR研究会を立ち上げた。今年度は、IoT-Aggregatorのコンセプトに基づいて実際に居住できる実験用のスマートホームを構築しており、このスマートホームを活用して協力企業の機器・サービスの連携について、次年度から実証実験を予定している。
公共交通オープンデータ協議会
公共交通オープンデータ協議会(ODPT)は、次世代の公共交通情報サービスのための標準プラットフォームの開発・構築を行う団体である。そして、各種の交通機関のデータをワンストップで提供する「公共交通オープンデータセンター」を運用している。現在、鉄道、バス、航空およびフェリー関連のデータを提供しており、Google マップ、Yahoo!乗換案内、ジョルダン乗換案内、NAVITIME等の地図・経路探索サービスで利用されている。
またODPTでは、2017年度より「東京公共交通オープンデータチャレンジ」を実施している。このコンテストでは、交通事業者のさまざまなデータを開発者に公開し、多様な来訪者の東京におけるスムーズな移動と快適な滞在を実現するアプリケーションを広く募集している。第4回となるチャレンジの応募は2021年10月15日に締め切られ、優秀作品の発表と表彰式が2021 TRON Symposium内で12月10日に行われる。
IoT-Engine
IoT-Engineは、トロンフォーラムで標準規格を定めた、オープンなIoTのための標準プラットフォーム環境である。リアルタイムOSとしてオープンソースとして公開されているμT-Kernelを搭載している。
近年、高性能なコアと低消費電力なコアを組み合わせた、いわゆるbig.LITTLE構成のチップが各種登場している。IoT-Engineでも、このbig.LITTLE構成のMPUを搭載したRZ/V2M IoT-EngineやSTM32MP1 IoT-Engineが登場した。現在トロンフォーラムではbig.LITTLE構成のチップに対して、高性能なコアでLinuxを、低消費電力なコアでμTKernel 3.0を動作させ、それらが連携しながら動作するアプリケーションを構築するためのしくみについて検討を進めている。
μT-Kernel 3.0
μT-Kernel 3.0は、IEEEの定めるIoTエッジノード向け世界標準OSの仕様「IEEE 2050-2018」に完全上位互換のリアルタイムOSである。2019年12月に最初のリリースが行われて以降も、トロンフォーラムにて積極的に開発が進められている。今年11月にGitHubでリリースされた最新バージョン3.00.05のソースコードでは、対応するマイコンにArm Cortex-Aも加わり、デバイスドライバも拡充された。また、STM32 Nucleoなどの市販のマイコンボードで簡単にμT-Kernel 3.0が使用できるBSP(Board Support Package)や、Eclipseなどの各種の開発環境に向けたプロジェクトも公開されている。
さらに、現在はトロンフォーラムが進めているマルチコアへの対応において、リアルタイム処理を行うCPUコアのOSとして、STM32MP1などマルチコア用のμT-Kernel 3.0を開発中である。
TRON IoT脆弱性センター(TIVAC)
TRONプロジェクトでは、IoT業界における脆弱性情報の共有を目的とした「TRON IoT脆弱性センター(TIVAC)」を2019年にトロンフォーラム内に開設した。単に脆弱性情報の共有だけでなく、その理解に必要となる背景知識を取り上げるなど、広く啓蒙活動を行っている。
これまでRipple20脆弱性問題の紹介、Thales(前身はGemalto)のセキュリティモジュール脆弱性問題などを紹介してきた。さらに、こうした脆弱性問題の理解に必要な背景知識として、関係諸団体の紹介、CWE(Common Weakness Enumeration)、CVSS(Common Vulnerability Scoring System)といった関連用語を取り上げ、啓蒙活動を行ってきた。
リカレント教育
最近のIoT、AI(人工知能)クラウド技術の成熟により、これらの最先端技術の知識とスキルを備えた人材を育成することが社会の大きな課題となっている。TRONプロジェクトでは、これまで培ってきた知見を生かし、INIAD(東洋大学情報連携学部)が中心となり、社会人のリカレント教育も積極的に推進している。μT-Kernel 2.0および3.0を中心としたIoT技術の体系的な教育を通じて技術者育成に取り組む「Open IoT教育プログラム」のほか、オーダーメイド型の社会人教育プログラムを今年も積極的に実施している。
IEEE GCCE2021前夜祭 デジタル・シンポジウム 講演 日本のICTの課題
IEEE主催の家電技術の国際会議GCCE2021(2021 IEEE 10th Global Conference on Consumer Electronics)が10月12日から15日の3日間にかけて京都で開催された。
それに先立ち、2021年で10回目を迎えたGCCEの前夜祭として、また本年創設された政府の「デジタルの日(Japan Digital Days)」(10月10日~11日)に賛同して、「デジタル・シンポジウム」がGCCE2021前日の10月11日に、龍谷大学の会場とオンライン配信のハイブリッド形式で開催された。
このシンポジウムで現在IEEEのLife FellowおよびGolden Core Memberを務める坂村健教授が「日本のICTの課題」と題した講演を行った。
坂村教授は、1984年にTRON構想を発表して以来、TRONプロジェクトとIEEEには長年にわたる信頼関係があり、2018年の組込み用OSの世界標準仕様「IEEE 2050-2018」の公開につながったことを紹介した。
そして社会のDX化が遅れている日本は、まずオープンな志向にマインドを変えていき、プラットフォーム志向であらゆるサービスの連携基盤を実現していくことの重要性を説いた。
最新リアルタイムOS「μT-Kernel 3.0」を徹底解説した新刊を発売
~世界標準のリアルタイムOSを使って、組込みプログラミングを習得しよう~
パーソナルメディア株式会社では、最新リアルタイムOS「μT-Kernel 3.0」のプログラミングを徹底解説した新刊『基礎から学ぶ組込みμT-Kernelプログラミング リアルタイムOSの初歩から実践テクニックまで』(坂村健・監修、豊山祐一・著)を12月15日に発売する。
IoTの普及に伴い、ネットワークに接続されるセンサーや機器である「IoTエッジノード」のプログラミングが重要となってきている。しかし、IoTエッジノードはリアルタイムOSを使用した組込みシステムであり、一般のソフトウェアとは異なる点が多い。プログラミングの修得は簡単でないといわれている。
そこで今回の新刊では、IoTエッジノード用リアルタイムOSの世界標準仕様であるIEEE 2050-2018に準拠した最新リアルタイムOS「μT-Kernel 3.0」を取り上げた。OSの基礎から、開発現場で役立つ実践テクニックまで幅広く扱っている。
本書には、著者が実際にμT-Kernel 3.0のOSやデバイスドライバの開発に携わった経験や、セミナーでリアルタイムOSのプログラミング手法を教えていた際のノウハウが集約されている。リアルタイムOSを初めて使う初心者から、すでに開発現場で活躍しているエンジニアまで、幅広く活用できる内容になっている。ぜひ本書を手に取っていただき、これからのIoT時代の発展を支えていくIoTエッジノード向けのプログラミング技術を習得していただきたい。
- 『基礎から学ぶ組込みμT-Kernelプログラミング ―リアルタイムOSの初歩から実践テクニックまで』
https://www.personal-media.co.jp/book/tron/373.html
TIVAC Information:FragAttacks/NicheStack
トロンフォーラムは、組込みの脆弱性に関して啓蒙するために「TRON IoT脆弱性センター(TIVAC)」を開設している。米国の国防総省や国土安全保障省などから発信される脆弱性に関するさまざまな情報を、トロンフォーラム会員向けに紹介している。また、TRONに限らず組込みシステム全般に対する危険を広く周知するために、トロンフォーラムのウェブサイトやTRONWAREの「TIVAC Information」のコーナーでも概要を紹介している。
本誌では、これまでFragAttacksに関して日本のWi-Fi機器販売会社の反応が遅いことについて危惧を述べてきた。それにしても、2021年11月時点でFragAttacksの発表からほぼ半年が経過しており、脆弱性性質のあるLinuxベースのWi-Fiルーター製品のファームウェアの更新が提供されないのは遅すぎるのではないか。脆弱性を知らずに攻撃の被害に遭い、深刻な事態に陥った、といった報告が出てくることを危惧している。
一方で、2021年8月には、組込みシステム用のネットワークスタックNicheStackの脆弱性が報告された。この脆弱性に対しては製造元が利用者に対してパッチやバージョンアップを推奨しており、各企業による迅速な対応報告も行われている。
脆弱性の早急かつ徹底した対応がIoT時代には必要なことを考えると、このような対応の差がどこにあるのかを調査することも今後重要になると思われる。
From the Project Leader
プロジェクトリーダから
最近Facebookが社名を「Meta(メタ)」に変えた。このMetaは「メタバース」という言葉に由来しているということだ。
メタバースは「メタ=超越」と「ユニバース=宇宙空間」の造語で、もとをただせば1992年に書かれたニール・スティーヴンスンの『スノウ・クラッシュ』で使われた言葉だ。メタバースというのは、簡単に言うとコンピュータで作られた仮想世界――しかも現実世界と違った非日常の異世界――で、SFなどでは、たとえば1万階建てのビルが出てくるような、現実の世界では作れない設定の世界が多い。
メタバースという言葉が初めて使われた『スノウ・クラッシュ』は、直径2万キロメートルの球体の赤道下に作られた全長65,536キロに及ぶ帯状の都市(という設定の仮想空間)が舞台になっている。主人公は高速ピザの配達人で、かつフリーランス・ハッカーで世界最高の剣士という、属性ありすぎのキャラクター設定。スノウ・クラッシュというのは実は電脳麻薬のことで、その取引にまつわるさまざまなトラブルに巻き込まれて……興味のある方は読んでいただけたらと思うが、最近このようなコンピュータの仮想空間に作られた世界がビジネスになろうとしている。
そのためにFacebookはOculus(オキュラス)というVRヘッドマウントディスプレイを売り出すなど、こうした仮想空間を体験できる共通的なフレーム――プラットフォームを提供しようとしている。従来の文字だけの交流空間から異世界での出会いの場へとSNSのシステムが大きく変わっていくことを予見させるものである。
最近ではSNSでも文字だけではなく音や動画も利用できるようになってきたが、次世代のSNSが3次元の立体空間の中で出会いが生まれるような場になっていくのは、まさにSF映画で予見されていたような世界が現実のものになってきているということだ。
TRONWAREでも何回か紹介しているとは思うが、1981年のヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』がメタバース的世界を描いた最初のSFではないかといわれている。SFの世界で予見されたことというのは、一般的には科学と直接関係あるものは、意外と少ない。人工衛星を予見したアーサー・C・クラークのような例もあるが、私も生きているうちに昔読んだSFの世界が本当に実現するとは思っていなかったぐらいだ。
今年も2021 TRON Symposium─TRONSHOW─が開催される。TRONはFacebookとは立場が違うが、近年のコンピュータサイエンスで重要になってきている“プラットフォームをいかに作っていくか”ということを常に重視してきた。
残念なことにここ何年かの動向では、日本はプラットフォームを取ることができず、GAFAを代表とするプラットフォーマーにコテンパンにやられている状況だが、常に世の中ではデバイス技術などをはじめとした基礎技術がどんどん変化している。基本的な技術が変わるときにはインフラチェンジが起こるものである。
その意味でここ数年のTRONプロジェクトでは次世代のインフラが何かということをテーマに、現実世界のデジタルツインを実現するためのプラットフォーム志向の研究開発を進めてきた。「ビルOS」やオープンデータ、なかでも公共交通のオープンデータの流通もその一環である。現在、いろいろと成果が出てきている段階にある。
プラットフォーム構築を目指すTRONプロジェクトに今後も注目していただきたい。
坂村 健
編集後記特別編
日米研究事情
日米研究事情
2021年のノーベル物理学賞に選ばれた、米プリンストン大の上席研究員の眞鍋淑郎博士が、米国籍を取得し米国で研究した理由として「私は周りと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」とインタビューで答えたことが、一時話題になった。
眞鍋先生は1958年に27歳で渡米し、アメリカ国立気象局に入局。米国のリッチな研究環境で、コンピュータの計算パワーをフルに生かした地球環境シミュレーションなどで成果を上げた。
特に1989年に発表された数値モデルによる地球温暖化予測は注目を集めた。この研究が、その後の気候変動枠組条約をはじめとする二酸化炭素などの温暖化ガスを減らそうという運動の発端となった。世界の政治経済にまで大きな影響を与えた研究者であることは確かだ。
実は、このような業績が世界的に認められた1997年、66歳のときに招聘されて4年ほど来日し政府系研究機関に所属された。しかし、後にまた米国に戻られている。当時の報道によると「日本の縦割り行政が学術研究を阻害していること」への不満が理由とされている。
ネットでは、若手の理系研究者を中心に、眞鍋先生の言うとおり「日本では研究できない」という声は多い。日本の研究環境は年々劣化している。「日本人ノーベル賞」と浮かれているが、先生が米国人になっている意味を真剣に考えるべきだ。日本人の科学分野のノーベル賞が続いて喜んでいるが、それらの業績は2003年の競争的研究資金制度改革以前になされたもの。今の日本の理系研究環境は、ノーベル賞級研究を生んだころとは大きく変わっている。不安定な期限付き雇用の常態化と競争的研究資金獲得に疲弊し、近視眼的になった若手研究者からはもうノーベル賞は出ないだろう。有能な若手は、どんどん頭脳流出している──などなどだ。
私も日本の理系の研究者の端くれとして、これらはすべて正しいと思う。確かに日本の理系の若手研究者は非常に厳しい環境に置かれている。
厳しい研究環境の是非
しかしネットを見ていると、日本に来た米国の研究者の「日本の科研費の申請はぬるい」とか、米国に行った日本人研究者が「研究資金獲得のため300枚の書類を書いた」といった話もある。
さらに言えば、眞鍋先生が渡米したのも主な業績を上げたのも、2003年に日本の研究環境が大改革(悪)される以前のことのはず。そもそも、このときの研究資金制度改革自体、当時の文科省や財務省の役人の予算削減の下心もあったにしろ、眞鍋先生を含む米国の研究者が競争的研究資金環境の中で切磋琢磨し大きな業績を生んでいたのを見て、米国を真似ようとしたからだ。
厳しい競争的環境が、優れた研究を生むのか、かえって萎縮させるか──どちらが正しいかということになるが、まず言えるのは「中途半端に真似るのは最悪」ということだ。書類を300枚書いても100万ドル単位で研究費が来るのと、書くのは100枚でも100万円単位の研究費では、制度的には同じようでも研究環境としては全く違う。また、日本は科研費を取れても用途が細かく定められ、予算管理や報告書などの雑事も結局研究者自身がやるしかなくて研究時間が取れないという。米国では得た予算で必要なだけ事務員やスタッフを雇うこともできる。
また、眞鍋先生のコメントは良し悪しでなく「私には合わない」と言っただけ。どちらが正しいかではなく研究者の性格と制度の相性も問題だ。たとえばカナダは米国と近いが、国民性は大きく違う。どちらかというと競争より安定を好む日本的メンタリティの人も多い国。ディープラーニングを生んだトロント大のヒントン教授らの研究も、CIFAR(カナダ先端研究機構)の薄く広くの非競争的な研究資金が助けたという。支援は一人当たり年間100万円ぐらい。とはいえ日本の科研費は若手にとって狭き門だが、CIFARの支援は若手でも「少しいい」程度の研究で通る。それが設立以来18人のカナダのノーベル賞受賞につながっている。
米国は科学の世界で厳然たる成功国だが、その米国式を真似れば同じ成果が出るというほど、ことは単純ではない。科学もまた人間の営みだからだ。若手研究者の悲痛な声は事実。この機会に日本の科学技術政策を見直すべきだろう。
起こらなかったこと
HPVワクチンをめぐる報道
つい最近「HPVワクチンの勧奨再開決定」というニュースがあった。HPVワクチンはいわゆる「子宮頸がんワクチン」のこと。子宮頸がんワクチンというと、つい5、6年前の報道番組で接種後に麻痺になった若い女性の苦しみや、マウスの実験で脳の障害が出たなど、大きく取り上げられていたのをご記憶の方は多いだろう。
視聴者としては「厚生労働省の専門部会は2013年から中止していた接種の積極的勧奨を再開すると決めた」と、他人事のように経緯を説明されても──事実の報道としては正しくても「あれは危ないはずだったのでは」と疑問に思うだろう。
また、そういうニュースは「健康被害者との間で深い溝が」のように締めるものが多いが、未だに「被害者」というなら「被害」を与えた「真犯人」がいるという前提になる。勧奨再開される以上HPVワクチンは犯人ではないわけで「誰が真犯人」なのか疑問に思うのが当然だろう。
HPVワクチンに関する報道が盛んだった2016年当時から産科小児科医学界やWHOなどは「HPVワクチンは安全」と言い、日本の接種率の低さを警告していた。しかし日本のマスコミは、医療ジャーナリストの村中璃子さんなど一部を除き、不安を強調する報道を繰り返していた。
「積極勧奨再開」という事実だけを淡々と伝えるのが報道で、その理由となった調査研究などの背景まで伝えるのは役割外とでも言うのだろうか。それにしては、つい最近も「日本で新型コロナの感染者が急減したのは、遺伝子のコピーミスで自滅したから」という、まだプレプリントもでていないような初期段階の研究を大きく取り上げる報道があった。そういう研究があるという「事実」を報道したもので、正しいかどうかの判断はしていないからいいとでもいうのだろうか。生煮えでも取り上げる研究と、広く認められていても紹介しない研究結果と、違いは何なのだろう。
「起こらなかったこと」を
科学的分野では、因果関係を言うには「起こったこと」と同程度かそれ以上に「起こらなかったこと」を調べるべきというのは共通認識だ。「パンを食べたら翌日死んだ」というのが「起こったこと」でも、そこから「パンは突然死の原因」と主張するには「パンを食べても突然死しなかった」ケースや「パンを食べなかったのに突然死した」ケースと比較しないといけない。パンに関係なく突然死が同じ割合で発生するなら、突然死の原因は別に存在する。
そこに報道と科学のミスマッチがある。報道は「起こったこと」を扱うため「起こらなかったこと」に注目する訓練を受けていないようだ。「HPVワクチンを受けたら、麻痺が出た」のは起こったこと。しかし多くの研究でHPVワクチンを受けていなくても同様の症状が同じ割合で発生することがわかった結果、HPVワクチンは冤罪と判定された。
さらに言えば「ワクチンを受けたおかげで、発症しなかった」というケースも「起こらなかったこと」。だから科学は注目するが、報道は注目しない。そして「ワクチンを受けずに子宮頸がんで死亡した」年間3,000人といわれる女性は「ワクチンによる被害者ではない」という理由で、報道からは見えなくなる。
とはいえ、科学だけでは割り切れない感情があるのが人間。我が子のために良かれと思って下した判断が、一生背負うような苦痛を与えることになったら……その心痛はいかばかりかと思う。日本の報道が、そういった「被害者」に寄り添う心情を持っていたことは、悪いとは言えない。水俣被害や多くの薬害で、それが被害者の助けになったのは確かだろう。
そういう感情から言えば、真犯人を指弾し続けてきた家族に「真犯人は別にいます。あの人は冤罪ですので釈放されます」というのが、被害者に寄り添う報道として辛いのも分かる。しかし、辛いから「事実」だけ伝えて、なぜ冤罪が生まれたかの話には触れませんというのは、「冤罪」を受けたのが人間ではなくワクチンだからいい、とでも言うのだろうか。
パンデミックとワクチン、ワクチンと副反応、なにが正しいか研究が進むまでわからないことは多い。しかし、その基本には科学がある。新たな「見えない被害者」を生まないためにも、日本の報道にも「起こらなかったこと」に注目する意識を持ってほしい。
坂村 健