TRONWARE|Personal Media Corporation

TRON & オープン技術情報マガジン

TRONWARE Vol.191

TRONWARE Vol.191

ISBN 978-4-89362-357-7
A4変型判 並製/PDF版電子書籍(PDF版)
2021年10月15日 発売


特集 今、BTRONを使う

BTRON(ビートロン)とは、TRONプロジェクトのサブプロジェクトの一つで、エンドユーザ向けの高度な統合操作環境の提供を目的とし、パソコンOSや組込み機器のユーザインタフェースシステム、電子機器の操作方法(HMI)、キーボードなどの入力手段など、ユーザエクスペリエンス(UX)の先進的な研究開発として始めたものだ。パソコンOSとしてのBTRONの成果は「BTRON仕様」として公開されており、その仕様に準拠したBTRON仕様OSは、多国語対応、データ形式の標準化、ネットワーク型の文書管理など、さまざまな特長を備えている。

本特集では、TRONプロジェクトリーダーの坂村健教授とともに、BTRONの研究開発当時の逸話を振り返ってみたい。さらに、最新のWindows PCでBTRON仕様OS「超漢字V」を動かす方法や、BTRON仕様OSの多漢字機能から派生した文字検索ツール「超漢字検索」の特長などを紹介する。

本特集によって、坂村プロジェクトリーダーのBTRONに対する一貫した理念をご理解いただければ幸いである。

今、BTRONを振り返る

最近BTRONの開発秘話がテレビ番組で取り上げられるなど、当時を知る人だけでなく知らない人にとっても「幻の国産OSプロジェクト」はロマンある話題のようだ。そこで、1980年代のコンピュータ業界の情勢から、教育用コンピュータとして採用が決まったBTRONが貿易摩擦の波にのまれることになった経緯まで、坂村健プロジェクトリーダーに話を聞いた。

***

アメリカで誕生したパソコンは英語をベースに考えられているが、コンピュータアーキテクチャを研究していた坂村教授は、日本語を含めた他の言語を扱ったり、文字だけではなく画像や映像、音声などのマルチメディアも扱ったりできるしくみが必要になると考えた。こうしたコンピュータが扱う基本データの構造から根本的に考え直し、UXを考慮した設計が、BTRONアーキテクチャの構築に反映されている。

1980年代の先進国ではコンピュータを中心とした世界になる兆しが見られ、日本でも義務教育課程へのコンピュータの導入に関心が集まっていた。当時の文部省と通産省が主導して学校に導入するパソコンの標準化の検討が進められ、CEC(財団法人コンピュータ教育開発センター:Center for Educational Computing)という組織が立ち上げられた。TRONは最初からオープンアーキテクチャに基づき知的所有権のライセンス料を取らないことにしていたので、CECともライセンス料を取らないことを合意し、日本のコンピュータの標準化案の一つとしてBTRONが採用され、国内外の電気メーカーによってTRONのOSを搭載した教育用パソコンの試作機が作られた。

しかし、BTRONが1989年にアメリカのスーパー301条の候補に入ったことで、教育用パソコンへの導入が見送られることになってしまった。アメリカの調査の結果、1年後にBTRONはスーパー301条の制裁対象からは外れたのだが、経済制裁に及び腰になりアメリカに忖度した人たちやマスコミによる風評被害などの影響で、BTRONに関する研究開発は商品化を目前にしてストップしてしまった。 2020年を過ぎて、坂村教授が1980年代に描いていたように、コンピュータがどんどん小さくなって、一人1台どころか何十個ものコンピュータを身につける時代が到来した。残念ながらパソコン用OSとしてのBTRONは広く普及するまでに至らなかったが、電化製品やスマートフォンなどの機器をコントロールするためのリアルタイムOSとしてTRON OSは世界中で使われている。私たちは、あらゆるモノの中にコンピュータが入っている――まさにIoTの時代に生きているのだ。

コラム:TRONの多国語処理(抜粋)

世界ではたくさんの言語が使われており、使用されている文字も多様であるため、TRONコードは当初から多国語処理を意識して世界中の文字を収録しても余りある領域を用意していた。

日本でコンピュータサイエンスに貢献する立場として、きちんと言語を扱えるようにしたいと考えたときに、まずは日本語からだろう、ということで、東京大学文学部で日本語を専門にしておられた山口明穂先生に相談したところ快く協力してもらえることになった。同じく東大文学部の田村毅先生、青柳正規先生、片山英男先生たちにも委員になってもらい、私はコンピュータサイエンスの研究者として、コンピュータで日本語を正しく扱うにはどうしたらよいか、根本的なところから研究しようと始めたのが「人文系多国語テクスト・プロセシング・システムの構築に関する研究」だ。(後略)

坂村 健

※当時の研究成果をまとめた冊子『人文系多国語テクスト・プロセシング・システムの構築にむけて』(平成7年(1995年)度日本学術振興会産学共同研究支援事業)のPDFをご覧いただけます。

今、最新のPCでBTRONを使う

2021年は、最初の一般向けBTRON仕様PCである「1B/note」が1991年に発売されてから、ちょうど30周年である。BTRONはこの30年の間で、DOS/V PCで動く16ビット版の「1B/V1」から32ビット版の「B-right/V」、そして5万字以上の漢字が使える初代「超漢字」からWindows上で動く「超漢字V」へと進化してきた。

しかし、それ以上に著しいのがPCのハードウェアの進歩である。「1B/note」のCPUは16MHz(インテル386SX)、メモリ4MB、ハードディスク20MBであったが、最近のノートPCのスペックを見ると、2GHzのCPU、16GBのメモリ、512GBのSSDといったあたりが標準のようだ。このようなPCでも、1991年当時の「1B/note」よりずっと安価に入手できる。両者の性能比は、CPUクロックで約100倍、メモリ容量で約4,000倍、ハードディスクやSSDで約25,000倍にも達する。

開発から30年以上の歴史を持つBTRONは、100倍以上の進化をした最近のPCでもちゃんと動くのだろうか。そのような疑問を解消すべく、本稿では、先日購入したばかりの最新のノートPCであるMicrosoft Surface Pro 7でBTRONが動くことを実際に示すとともに、その手順を紹介する。

Surface Pro 7 に「超漢字VインストールCD」を接続

超漢字Vを使ってみよう

超漢字V はBTRON仕様OS だ。BTRONのさまざまな特長を持っており、これらを知ることが超漢字Vを使いこなすための第一歩である。

たとえば、わかりやすく統一された操作法や、手の形のポインタによる親しみやすい操作感は「BTRON作法」として標準化されたものである。また、BTRONでは、インターネットが普及する前から、文書中のハイパーリンク(BTRONでは仮身(かしん)とよんでいる)からリンク先の別の文書を自由に開けるハイパーテキストの機能を使うことができた。このBTRONのハイパーリンク型の情報管理機能は「実身/仮身システム」という。実身(じっしん)は、データ本体そのもの、つまりデータの“実”体だ。仮身は、実身を操作するための入り口を示すアイコン、つまりデータの“仮”の姿になる。仮身は文章や図形など、実身の中に自由に置くことができる。さらに、日本生まれの超漢字Vは、日本やアジアの多様な文化の象徴である漢字の機能が特に充実しており、多くの人名用異体字、大漢和辞典収録文字から中国、韓国、台湾の文字、iモード絵文字やトンパ文字まで含む18万の文字を自由に混在して扱える。

本稿では超漢字Vの実身仮身機能を使って効率よく文書を作成する方法や、文字検索を使って読めない漢字や異体字を簡単に検索する方法などを、具体例をあげて解説する。

実身/仮身システムのイメージ

18万字以上の文字を検索できるアプリ「超漢字検索」

TRONプロジェクトでは、1984年のプロジェクト開始当初からコンピュータ上での多漢字・多文字の取り扱いを重視しており、研究・開発を続けてきた。その成果は、早くからパーソナルメディア株式会社が開発した一連のBTRON仕様OSに実装され、Windowsなどの一般的なOSでは文字が足りない、という切実な問題を抱えたユーザから長い間歓迎されてきた。

現在発売中のBTRON仕様OSの最新版「超漢字V」でも多漢字・多文字の利用がサポートされており、人名・地名の異体字からトンパ文字まで、18万字以上の文字を検索することができる「文字検索」アプリが標準で装備されている。このアプリを「超漢字V」以外の環境でも使いたいというニーズを受けて、「超漢字V」の技術をベースに開発した文字検索ツールが、PC向けの「超漢字検索」(Windows版、Linux版)と、スマートフォン、タブレット向けの「超漢字検索Pro」(Android版、iOS版)であり、いずれも好評発売中だ。

パーソナルメディアでは「超漢字検索」、「超漢字検索Pro」をベースとしたカスタマイズ版のソフトウェア製品やさまざまなソリューションも提供している。その一つである「超漢字検索 文字情報基盤対応版」は、Unicode IVS/IVDとIPAmj明朝フォントを活用して、読めない漢字や異体字をすばやく検索、入力できる法人、自治体向けのWindows版文字検索ツールである。10台までのPCで利用可能なライセンス付きのパッケージがとして販売しているが、自治体に対しては、3か月間無償で利用できる体験版モニター制度も用意している。

超漢字検索で「辺」の異体字を表示

Web上で進化する超漢字検索

BTRONや超漢字で培われた文字検索の技術は、現在のネットワーク社会を支えるWebアプリの文字検索にも応用できる。

企業や自治体などの組織においてメンバーや住民の名簿を管理する場合に、Webアプリから超漢字検索の機能を呼び出すことによって読めない漢字や異体字を簡単な操作で検索して入力できる、カスタム対応製品を「超漢字検索Web版」として特定のお客様にご提供していたが、2020年末にはWebアプリ用の文字検索ツールとして汎用的に使えるようにパッケージ製品化を行い、「超漢字検索winMJ」の名称で販売を始めた。この中には、文字検索エンジンである超漢字検索サーバーと、Web入力用フロントエンドのサンプルプログラムが含まれており、システム全体をクラウド上に置くことが可能である。 文書のペーパーレス化やオンライン化を推進するには、漢字文化のデジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation:DX)を進める必要があり、そのためには難しい漢字や人名用異体字を使いやすくするツールが重要である。本稿で説明した超漢字検索Web版の各種の機能が、そのためのツールとしてますます役立つことが期待される。

「超漢字検索winMJ」の画面例:「 示 メ」を含む漢字を検索 

リモートワークの時代にキーボードについて再考する

1986年に発表されたTRONキーボードの論文に書かれた「TRONキーボードの設計」では、効率よく入力でき、疲労度の少ない新しいキーボードとしてTRONキーボードを提案している。タイプライターの時代とは異なり、キーボードは機械式から電子式になっているということも考慮して、労働医学の知見もあわせ理想的なキーボードを設計しようというものだ。

実際に150名の手の動く範囲を測定した結果をもとにキーピッチとキーの配置を提案したり、160万文字のデータを分析し、文字の出現頻度、二文字連糸(連続した二文字の組み合わせ)から、かなのキー配列を決定したりしている。こうしたTRONキーボード仕様に基づくキーボードとして、「TK1」(1991年)や「μTRONキーボード」(2007年)が製品化された。

コロナ禍でリモートワークが推奨されるようになり、メールやチャットなど非同期的な通信手段が増えたという調査結果がある。パソコンやタブレットでの文字入力を効率よく行うことで円滑なコミュニケーションを促進させるような、リモートワークに適した新しいTRONキーボードの登場が期待される。

TK1

超漢字Vでよみがえる日本の歴史

『玄語』とは江戸時代の思想家三浦梅園による未完の文献で、現在は長男の三浦黄鶴による校訂版が刊行されている。

本稿を寄稿していただいた北林達也氏は、実身/仮身システムや多漢字・多言語対応のTRONコードといったBTRONの機能を活用して、長年にわたり『玄語』のデジタル化に取り組んできたという。本稿では、『玄語』のデータベース作成の手法や、その過程で明らかになった『玄語』の世界観などを紹介する。

対句構造を持つ『玄語』の例。ルビも執筆者の作業による。

BTRONの未来

現在のインターネット環境ではすでに多くのユーザの主な関心はOSよりも、その上に載せられたサービスに移行している。PCのアプリケーションがパッケージソフト主体の時代には、アプリが載っているOSを強く意識する必要があった。しかし、現在多くのユーザはPCやスマートフォン自体よりアプリ、さらにはサービスを使っているという意識のほうが強い。Googleの各種サービスもTwitterもLINEも、OSや端末はいつでも乗り換え可能で、環境を意識せずに利用ができるからだ。

このインターネット時代のBTRONを考えるならば、もはや本質ではないローカルなOSレイヤーとしてではなく、実身/仮身モデルのネット内での正常進化として──まさに「超漢字Vでよみがえる日本の歴史」の筆者のような方のための作業環境としてのメタOSを目指すべきだろう。

イメージとしてはサイト作成機能とマルチメディアのメモノート作成機能、TRONコードで大量の字形が使え、簡単なワープロやグラフィックソフトとデータベース機能、さらにビジュアル・プログラミング環境を合体し、仮身化したURLによって簡単にネットワーク構造の資料が作成でき、GitHubを始めとするクラウド中の各種サービスとも連携できる──まさにネットワーク型のコンテンツを皆で作り上げていくための「統合クラウド環境」だ。このような環境があれば、北林氏の労作であるBTRON版『玄語』も、書庫にしてアップすることで簡単にインターネットの中のリンクされたコンテンツとして展開できるはずだ。

現在このような環境を、仮称「Net BTRON」として研究開発中である。

坂村 健

BTRON の文書管理モデル

TIVAC Information:FragAttacks

トロンフォーラムは、組込みの脆弱性に関して啓蒙するために「TRON IoT脆弱性センター(TIVAC)」を開設している。米国の国防総省や国土安全保障省などから発信される脆弱性に関するさまざまな情報を、トロンフォーラム会員向けに紹介している。また、TRONに限らず組込みシステム全般に対する危険を広く周知するために、トロンフォーラムのウェブサイトやTRONWAREの「TIVAC Information」のコーナーでも概要を紹介している。

本誌VOL.190で紹介したFragAttacks問題は、北米の会社からの脆弱性が報告されていたが、JVNの脆弱性報告ページを見ても日本の同様の機器を製造利用している会社の報告は少ない。日本国内のベンダーには脆弱性の報告を自社だけでなく、ぜひJVN.jp(つまりJPCERT/CCとIPA)にも報告して公開していただきたい。

トロンフォーラムの会員向けサイト「TIVACニュースレター」では実際にFragAttacksで報告された検出ツールにより、日本の会社が販売する三つのルーターで脆弱性を確認した事例を紹介している。Wi-Fiルーターのような身近な機器にも多数の脆弱性が今でも発見されていることは、関係する技術者ではなくとも念頭に置いていただきたい。

組込みのセキュリティ対策に興味をお持ちの方は、ぜひトロンフォーラムに入会して情報収集に役立てていただきたい。

From the Project Leader
プロジェクトリーダから

7月頃にフジテレビのプロデューサーから連絡があり、どうしても私に会って話を聞きたいという。コロナ禍ということもあり、あまり対面での取材は受けていないため、詳しい用件を聞いたところ、「番組でBTRONを取り上げたい」というではないか。聞けば「世界の何だコレ!?ミステリー」という世の中にあふれている都市伝説やミステリーを紹介する番組で、「パソコンの黎明期に日本でパソコンを作ろうとしていた研究者がいて、日本にはBTRONというすばらしいテクノロジーがあったにもかかわらず、世の中に出ようとしたときにいろいろな圧力によってつぶされてしまった」という話が都市伝説として流れているという。

もちろんプロデューサーは私が先駆者として開発を進めてきたことも知っていて、「それらが事実とは異なるということもつかんでいるので、どうしても番組にしたい」と意気込んでいた。そこでコロナ禍の中会って話をしたのだが、「どうしてBTRONがダメになってしまったのか」と聞かれたので当時のいきさつを詳しく話したところ、「先生の話はよく分かったが、番組の編成時間の都合上、すべての内容を番組に盛り込むのは難しい」とのことだった。番組は9月8日に放送されたので、ご覧になった方もいることだろう。

「都市伝説」といわれるぐらいに今の若い人たちのほとんどがBTRONのことも知らないというのなら、私たちが日本で独自のコンピュータを作ろうと高い志のもとでやっていたプロジェクトを、このまま埋もれさせてしまうわけにはいかない。BTRONが世に出たものの大きな流れにはならなかった経緯を、きちんと歴史的に残しておいたほうが良いということで、今回の特集を組むことになった。放送では時間の関係で触れられなかったこともあわせて、今のBTRONに対する私の思いも伝わればと思う。

今でもBTRONは動くという記事については——もちろん本誌読者にはBTRON愛好者もたくさんいることは知っているが——最近少しでもBTRONに興味を持った方にも楽しんでいただければと考えて記事にした。TRONキーボードに関しては、クラウドファンディングなども使って、もう一度世の中に出したいと思っているので、期待していてほしい。また、今回の特集の中で、長年BTRONを使って日本の歴史の研究を続けている北林達也氏の記事も取り上げた。こちらもぜひ注目していただきたい。

坂村 健

最近、大沢在昌氏の『熱風団地』を読んだ。

外務省や警察庁を巻き込んで物語が展開するエンターテインメント小説だが、登場する日本政府の役人の描写には「まさにこれなんだよ!」と唸ってしまった。決断が遅く、世界の動向からずれていて、自分で判断して行動を起こさないためにどんどん事態を悪くしてしまうので、読んでいて本当に歯がゆいのである。もちろん日本にも優秀な役人はたくさんいるのだが、一人一人がいくら優秀でも日本という全体の流れとして、前例主義で決断が遅く、外国の顔色を伺ってばかりの人物が背後にいるようなことは、今も昔もたいして変わらないのだろう。

もし仮に今BTRONのようなものが世に出たとしても、30年前と似たようなことが起こる可能性は極めて高い。そのような日本に私たちは住んでいるということを認識しなければならない。

『熱風団地』
著者 大沢 在昌
発売 2021年8月
出版 KADOKAWA

編集後記特別編

自由と責任/司令塔の存在意義

デマのリスク

先ごろFSMB (米国州医師会連合会)のウェブページに「COVID-19ワクチンの誤報を広めると医師免許が危険にさらされる可能性がある」という声明が載せられた。米国の制度は官と民、国と州の独自性が重層的に絡んで分かりにくいが、州を越えて全米で通用する日本の医師免許に近いのが、このFSMBの医師免許のようだ。

声明は「事実と科学的根拠に基づき医学界で合意していることと異なる、不正確な新型コロナワクチンについての情報を広めることは、医師の倫理的・職業的責任に反する行為として医師免許剥奪のリスクを覚悟せよ」というものだ。

「ワクチンを打つと不妊になる」、「遺伝情報が書き換えられる」、「ワクチンのせいで何千人も死んでいる」というようなネットを調べればすぐわかるデマレベルの発言はさすがにしないにしても、医者や医療関係者でありながら、リスクはわざと過大評価しワクチンのメリットは過小評価して「コロナワクチンは打たないほうがいい」と言っている人は米国にもいる。だから、冒頭の声明になったわけだ。

日本でも百人以上の「医療関係者」が、そのような声明を出したという報道があった。しかし、その声明に名を連ねている人の評判や過去の活動を見ていると、標準医療を否定することで「〇〇は危険だから自然治療を」という本を書いてビジネスをしているような人が多く含まれている。「ワクチンは製薬会社が儲けるために危険性を隠して売ろうとしている」というような陰謀論を言う人もいるが、儲けで言うなら「反ワクチン」のほうがずっと楽に儲けている。

また、最初は医学界の問題に対して十分理由のある苦言を呈していた人が、信者に祭り上げられて「反標準医療」の教祖になり、収入面でも、祭り上げられ頼られる満足感からも後戻りできなくなっている例もある。そして、そういう人がまた信者を再生産し、自分に都合のいい意見だけを取り入れて、互い信仰を強化しあって、後戻りできなくなる。

自由と責任

マスコミの責任も大きい。トランプ大統領の信者商法を批判するなら、反ワクチンを始めとする「反標準医療」の信者商法も似たようなもので、マスコミ全体として明確に否定すべきだ。それを、この件に関しては公平性と両論併記を免罪符に明確な否定を避ける。それどころか、子宮頸外ワクチンに関しては、つい最近まで明らかに反ワクチン側の主張にのみ「寄り添った」報道が多かった。

流石に海外の主要マスコミは、政治信条の左右に関わりなく社としてワクチン推奨だし、反ワクチンの主張は流さないと決めているところもある。その意味で、「ワクチン危険」本の広告を撤去した東京メトロの決定は英断だが、世界基準ではあたりまえのことだ。

こうなると「言論の自由」との関わりを問題視する反論もあるだろう。しかし、「言論の自由」は、意見を言うことの自由であって、言ったあとにその責任を取らなくてもいいという免罪符ではない。

映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』でも、ベトナム戦争の「不都合な真実」を報道した新聞社は訴追されるが、裁判の場では「言論の自由だから、訴追されない」などと言わず「国益に叶う報道」であったことを正々堂々と主張して無罪を勝ち取る。言論の自由は、最初の報道が事前検閲なしにできた時点で満たされており、事後に「国益を損なった」という訴追を受けないわけではない。だから新聞社は法務スタッフを入れて、このニュースが米軍の死者を増やす結果にならないかなど真剣に議論する場面が映画にはある。「言論の自由」が守ってくれるなどと甘く考えず、訴追される可能性を十分に理解したうえで、胸を張って国益のために報道すると決断するから、その女性社主の姿が感動を呼ぶのだ。

先のFSMBの声明の中に以下の一文がある。「医師は、その専門的な知識と訓練により、社会的に高い信頼を得ており、本人が認識しているかどうかにかかわらず、社会的に強力なプラットフォームを持っています。また、医師には、患者の利益のために医療を実践するという倫理的・職業的責任があり、公衆衛生の向上のために、事実に基づき、科学的根拠に基づき、合意に基づいた情報を共有しなければなりません。不正確なCOVID-19ワクチンの情報を広めることは、その責任に反します」──この「医師」を「マスコミ」に置き換えても十分に成り立つと思う。この声明から職業人として誇りを感じてほしい。

みんなで作るモデル契約書

つい先日、Twitterに経済産業省から「研究開発型スタートアップと事業会社間のモデル契約書の改訂に向けて、による2回目の意見募集を実施します。今回は、GitHub上のIssues機能を用いて、より多くのスタートアップの契約に携わる方々と議論した上で取りまとめたいと考えています。ぜひご参加下さい。」というツイートが投稿された。

「GitHub」は、本誌の読者ならご存じの方が多いだろうが、最近のプログラム開発の現場で広く使われているチーム開発プラットフォームだ。一つのプログラムをチームで開発している場合、いろいろな人がコードを加えたり修正したりするので「誰が、いつ、どのような目的でどの部分を修正したのか」の記録を残し、他の人がいつでも確認できるようにしておかないと混乱する。手直しでかえってまずい結果になったので、何日前かの状況に戻したいということもある。それらのバージョン管理機能をまとめた「Git」というシステムが作られた。

さらに、コードのこの部分をこう書き直したので使う前にチェックしてほしいと皆に知らせる「Pull Request機能」。コードのこの部分で問題がおきたのでどうしたらいいか皆に聞く「Issues機能」など、そういうチーム開発向けの機能を取りまとめて、ネットがあれば、誰でもどこからでも使えるようにしたクラウドサービスが「GitHub」だ。

これ自体誰でもただで使えるが、さらにこれが便利だということで、プログラムを有志で開発し皆に公開するオープンソース文化のプラットフォームとなり、すでに皆で使える1億件以上のプログラムがGitHub上に公開されている。もちろん、オープンにしないで企業内でのチーム開発にも使える(その場合は有料)。

今では、銀行の勘定系のような重厚長大なシステムを除き、現代風の軽いシステム開発では、GitHub上でチームが協力して、目的にあったオープンソースを探して部品として組み合わせ手直しし、必要なシステムをすばやく開発するスタイルが主流となってきた。

ポイントは、これがプログラムという情報を皆が取り扱って「この部分をこうしよう」など具体的なポイントを指し示しながら良くしていくためのプラットフォームだということだ。ここでの対象はデジタル情報であればプログラムに限らない。そのため、GitHubをデザイン管理に使う広告会社や、小説を公開して皆で書いていくようなサークルもある。

冒頭のツイートはこのGitHubを使って、「皆でより良いモデル契約書を作り上げましょう」と経産省が呼びかけたということだ。実は「2回目の意見募集」とあるように、5月頃に経産省がたたき台のモデル契約書をPDF形式で上げて意見を収集したのが発端だ。そのときは多くの研究開発型スタートアップの人が使っているGitHub上で従来型のパブリックコメントをやる程度の意識だったようだ。そのためまったく話題にならかったのだが、気がついた一部の有志が、PDFをマークダウン形式に書き直した。それによりPDFと違い論理構造がちゃんと示されて機械処理しやすくなったので、GitHub上で「ここをこうしよう」といった議論がしやすくなった。そのうえでPull Request機能を使って皆で改良する道筋をつけるところまで有志の協力で行ったのが「1回目の意見募集」。そのときの反省を活かし、むしろIssues機能を使うほうがいいとなったのが今回で、これは最初からGitHubの流儀に従っているため、多くの注目を集め、すでにIssuesも多く投稿されている。

司令塔の存在意義

このこと自体は、非常にすばらしい動きだ。インターネットをベースとした行政のDXでもあり、まさにオープンな「新しい公共」の第一歩でもある。

ただ、ここで「経産省がここまでやれるなら、デジタル庁は必要?」という声も出てくるかもしれないとは思う。実際、私が参加している国家戦略特区でも多く経験したが、外から言われて改革するくらいならむしろ先取りして自分たちの得点にしたいという自前主義が省庁にはある。それからすると、今後経産省のGitHub利用に似たデジタル改革案件が加速して出てくることも十分考えられる。

デジタル庁については、まだ具体的なアウトプットを見ていないので評価はできないが、各省庁を慌てさせたのはデジタル庁を作った一つの功績と言えるかもしれない。

とはいえ、経産省の最新の技術を取り込んだ新しい取り組みは評価するものの、自前主義で行われる改革は多くの場合局所最適に陥るのが日本だ。ひどいときは「あそこが作ったしくみは、絶対に使いたくない」という話まで出る。国のサイズが大きく個々の組織もそれなりにあったので、従来はそれでも良かった。しかし、これからはさらなる効率化と最新技術への対応が常に求められる状況になる。たとえばマークダウン形式のモデル契約書というモデルは、何も経産省だけでなく、より汎用化し標準化できれば、ネットで繋がれたコンピュータ同士が電子のスピードで自動契約する時代の、論理記述された契約書にまでつながりうるものだ。

もちろん、すべての変革はデジタル庁で行い、各省庁は自発的な改革意思を持つなと言っているわけではない。重要なのは、皆で利用したほうがいいものと、自分だけでやるべきことの見極めだ。GitHub上で行われていることはその参考になる。プログラムを開発していて、皆に役立つものができたら、それを公開する。皆で改良し、最初の開発者もその恩恵を受けるというオープンソースの理想がそこにある。同時に有料のプライベートリポジトリで自分たちだけのための開発もできる。

そういうオープンな世界でデジタル庁がやるべきことは、標準化すべき部分の見極めと、必要に応じて他省庁さらには企業まで巻き込んだプロジェクトグループの立ち上げ、そのまとめ役となることだろう。たとえば、日本国政府というプライベートリポジトリの中で、いろいろな省庁の有志が集まって一つの法律を磨き上げてもいい。また各省庁も自前主義でなく、積極的に他省庁が利用してくれるように成果をオープンにする。

そのとき最後に問題になるのが予算の縦割りと目的限定の壁。特定目的をきっかけとして予算は取られるが、使えても他の目的には使ってはいけないというのが現行法。デジタル時代に合わない。汎用的に何にでも使っていいのがデジタルの世界の流儀だ。日本の国家予算のしくみでデジタル時代に最も合わないところだろう。そこまで踏み込むのはデジタル庁の権能を超える。政治の出番がここにある。

坂村 健

Share / Subscribe
Facebook Likes
Tweets
Send to LINE