TRONWARE|Personal Media Corporation

TRON & オープン技術情報マガジン

TRONWARE Vol.200

TRONWARE Vol.200

ISBN 978-4-89362-366-9
A4変型判 並製/PDF版電子書籍(PDF版)
2023年4月15日 発売


特集:200号のあゆみ―次のTRONへ

1990年2月に創刊したTRONWAREは、30年以上にわたりTRONプロジェクトの動向をつぶさに伝えてきた。本特集では、さまざまな角度から、TRONプロジェクトを振り返った。

200号記念対談

  • 坂村 健教授 × 川崎 郁也 氏(インフィニオン テクノロジーズ ジャパン株式会社)
  • 坂村 健教授 × 檜原 弘樹氏(NEC スペーステクノロジー株式会社)

「200号記念対談」では、TRONプロジェクトに長きにわたり関わってきた技術者のお二人をお招きした。

一人は1980年代から32ビットTRON仕様チップの開発プロジェクトに携わり、以降も半導体メーカーでTRON プロジェクトを支えてきた川崎郁也氏(インフィニオン テクノロジーズ ジャパン株式会社)。

もう一人は日本の宇宙開発事業にTRONのリアルタイムOSを導入し、信頼性の高いシステムを作り上げてきた檜原弘樹氏(NECスペーステクノロジー株式会社)である。

それぞれの分野におけるTRONプロジェクトの歴史と今後の展望について熱く語っていただいた。

TRONWAREで振り返るTRONプロジェクトのあゆみ

「TRONWAREで振り返るTRONプロジェクトのあゆみ」では、TRONプロジェクトの基礎から応用まで、取り組んできたさまざまな活動を、TRONWAREの記事をもとにたどっていく。

T-KernelやμT-Kernelといった組込みリアルタイムOSとその応用、ユビキタスID技術を活用した場所情報システムと全国に展開された自律移動支援プロジェクト、オープンデータ・ビッグデータの利活用、個人情報の適切な管理を目的としたパーソナルデータストア(PDS)、AI+IoT時代のための新しい教育を実践するINIAD(東洋大学 情報連携学部)の開校、INIAD cHUBとUR都市機構が連携して進めているOpen Smart URプロジェクトなどを誌面とともに紹介した。

TRONプロジェクトを振り返る

  1. TRONシンポジウム(TRONSHOW)
  2. TRONイネーブルウェア
  3. BTRON Club

「TRONプロジェクトを振り返る」では、TRONシンポジウム(TRONSHOW)、TRONイネーブルウェア、BTRON Clubといった三つの活動の概要と成果を振り返った。いずれも坂村健プロジェクトリーダーを中心に、さまざまな分野から多くの人が賛同して集まってきたことにより継続してきたプロジェクトである。

特別付録:VOL.101~VOL.200 全バックナンバー無料閲覧権について

200号記念の特別付録として、VOL.101~VOL.200のバックナンバー記事をtronware.jpの特設サイトから閲覧できる特典をご用意した。

特集とあわせてバックナンバー記事もご覧いただき、本プロジェクトへの理解を改めて深めていただく機会になれば幸いである。

TIVAC Information:TIVACは組込みシステムの脆弱性問題を広報するために作られた

組込みシステムの脆弱性問題を振り返ると、一般のコンピュータシステムの脆弱性問題の歴史をなぞるように変遷していることがわかる。コンピュータシステムへの侵入が問題となった最初の事件については諸説があるが、コンピュータネットワークの脆弱性を突いた大規模事件として広く知られているのはMorris ワーム事件(1998年)である。

2023年の今日、ネットワークにつながるIoT機器の脆弱性問題は認識されるようになった。しかし少し前までは、モデムやルーターにパスワードを設定せず、あるいは工場ですべての製品に同一のパスワードを設定して出荷していた事例があったことを思い起こしてほしい。このようなパスワードの欠如、あるいはベンダーおよびユーザによる「弱い」パスワードの設定の欠陥を突くことで2017年に引き起こされたのが、Miraiという名前のマルウェアだ。

残念なことに脆弱性問題は、守る側は1年間365日守り続けて一回の失敗も許されない。一方、攻撃する側は、どこかのターゲットでいつか成功すれば悪事の目的は達成できるといった側面がある。守る側の負担感はとてつもなく大きい。しかし、ネットワークにコンピュータ機器をつなぐということのコストとして脆弱性対策は欠かせないと思うしかない。

Mirai攻撃で米国政府はIoT機器に対する攻撃に敏感になったのだろう。2020年にRipple20というTCP/IP ネットワークスタックの脆弱性問題が発覚したとき、米国政府のCISA(Cybersecurity and Infrastructure Security Agency)が広くリアルタイムOSSベンダーや組込み機器販売会社に連絡を取ろうとした。ベンダーではないものの、特に日本で広く使われているITRONやT-Kernelに問題がないか確認する問い合わせがトロンフォーラムに届いた。これがトロンフォーラム内にTIVACを設立するきっかけとなった。

TIVACは、今後も組込み機器のセキュリティ課題の啓発、情報収集とその周知に努めていく方針である。

TRONWAREを振り返る
TRONWARE200号によせて

創刊のねらい

TRONWAREは1990年2月に第1号を発刊した。最初の数号は3か月に1回の発刊だったが、すぐに2か月に1号ペースになった。途中で判型を変えるなどのマイナーチェンジもしたが、その後は継続したスタイルで出版してきた。このたび33年かけて200号を迎えることになり、感無量だ。

なぜTRONWAREを創刊したかについてはVOL.1にも明確に書いているが、コンピュータがますます複雑化して社会のあらゆるところに入っていったとき、それをきちんと使いこなせる人間を育てる必要があるからだ。何かを作って、その情報を出すだけではダメで、その知識を広く啓蒙、教育するということが重要だ。1990年当時はまだインターネットが民間開放されたばかりの時代で、書籍は教育のためのツールとして重要なものだった。TRONの技術を習得してもらうための情報を出すという方針は、今でも変わっていない。最新の情報を伝えるだけでなく、さまざまな講座や学習教材の記事を掲載しているのは、そういった創刊当時の方針を今でも守り続けているからだ。

TRONプロジェクト始動

TRONプロジェクトは1984年から始まっているが、そのころはまさに高度成長の絶頂期だった。私も創刊当時はまだ30代後半で若かったが、当時の号を改めて読み返してみると、日本が高度に成長しているという勢いを感じる。

もともとTRONプロジェクトは、日本で独自にコンピュータを開発できるようにしようという試みから生まれた。

日本は第二次世界大戦で大敗を喫した後、しばらくコンピュータや航空機など開発できないものがたくさんあり、その間に世界に大きく差をつけられてしまっていた。そこから何とか挽回して、もう一度トップクラスの国に返り咲こう、そういった進取のムードが国全体にあった。第二次世界大戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争など、さまざまな紛争があり、日本は直接関与してはいなかったものの、言わば西側諸国の後方生産基地のようになっていた。経済的にはある程度の余裕も出てきて、それを新たな研究開発費に投入し、さらに発展させようとしていた時代であった。

コンピュータの時代的な観点でいうと、半導体が1980年代の初めから進歩し始め、マイクロプロセッサの時代に突入する――それまでのディスクリート(ダイオードやトランジスタなど、単機能の個別半導体で構成された電子回路)で作られていたコンピュータが集積回路によるマイコンベースに変わっていくという時期だ。アメリカにはすでにマイクロプロセッサがあって、32ビットマイクロプロセッサが出始め
ており、インテルやモトローラが躍進していた。

TRONは日本独自のインフラや標準化を進めるためのプロジェクトとして、当時の日本電子工業振興協会という日本の業界団体のバックアップを得て、1988年に「トロン協会」という社団法人を作り、活動を始め、初代会長に富士通の山本卓眞社長に就任いただいた。実は、その前の1986年には日立製作所の金原和夫取締役に会長をお願いし、トロン協会の前身にあたる「TRON協議会」を発足し、その年には第1回TRONプロジェクトシンポジウムも開催している。そのような活動の甲斐あって参加企業が増え、まさに日本のコンピュータ関係の企業、全メーカーが参画する巨大な民間プロジェクトになった。

重要なことは、これは国策ではなく、民間で自らお金を出しあって立ち上げたプロジェクトだったということだ。TRONプロジェクトは当時の通商産業省や日本政府が多額のお金を出して始動したプロジェクトと勘違いしている人がいるが、それは誤解である。そもそも国のプロジェクトではなかったということが大きな特徴なのだ。

オープンアーキテクチャの精神

創刊号をはじめ初期には32ビットマイクロプロセッサの特集が多く組まれているが、TRONプロジェクトはもともと組込み型のリアルタイムOSを作るところから始まった。ITRONというリアルタイムOSが産業界で実績を上げ始めていたため、そのITRONが効率よく動くチップを作ったほうがよいということで、チップ開発のプロジェクトも誕生した。当然だがチップのプロジェクトは多額の費用がかかり、チップ単体で販売するのはマーケティング面からも難しかったので、アプリケーションの実績があるITRONがそのチップの上で動くということが重要だった。

TRONWARE の初期から盛んに特集されているが、TRONプロジェクトは当初からオープンアーキテクチャという考え方で、外国の人たちにも積極的に参加してもらっていた。オープンアーキテクチャを実現するために、TRON チップにしてもISP(Instruction Set Processor)レベルのアーキテクチャをしっかり押さえることによって、インプリメントは各社自由にするという方式を取った。これは実は今ARM がやっているのと同じやり方である。TRONははるか昔から、そうした方法でマイクロプロセッサの開発をずっと進めてきた。残念ながらTRONチップは広がらなかったのだが、その理由の一つに日米貿易摩擦などの政治的な問題が起こってしまったときに、日本政府がこの民間プロジェクトを守ろうとしなかったことがある。TRONは国策プロジェクトではないが──というか、なかったからなのか、国が動かなかったことには、ARMの元となったプロジェクトを英国政府が守ったのと比べると、今も忸怩たる思いがある。

1990年ごろには、日本にも半導体の売上だけで1兆円弱から数千億円の上のほうという会社がたくさんあった。しかし今は日本の半導体会社はほとんどなくなってしまい、パソコンや携帯電話を作っている会社もほとんどなくなってしまった。時代の流れとはいえ、日本はとても電子立国とは言えない状態になってしまったのは、残念なことである。

未来を見据えた幅広いテーマ

TRONWAREの200号を振り返ってみると、創刊号のマイクロプロセッサ特集に続き、ITRONがVOL.3、BTRONがVOL.4、μITRONVOL.5で登場する。特集ではないもののCTRONもVOL.4で登場している。そのCTRONはNTTの電子交換機の標準OSになり、さらに電話交換がIPベースになるまで日本だけではなく世界中の電子交換機でも使われた。

私は、コンピュータが未来の生活や社会にどういう影響を与えるのかをずっと考えてきた。あらゆるものにコンピュータが使われる時代に向けて、日本の産業力を強化するためには標準化を進める必要があることを訴えてきた。1993年ごろには、未来オフィスや未来の住宅など、現在のインテリジェントビルやオフィスロボットにつながる構想を取り上げている。私が東京大学総合研究博物館に所属していたこともあり、デジタルミュージアムという文化財のデジタルアーカイブの研究にも力を入れた。教育にも力を入れており、日本語をきちんと扱えるコンピュータを作るために多漢字・多文字対応のコード体系づくりにも取り組んだ。

組込みシステムに関してはT-Engineプロジェクトがスタートし、今もT-Kernel の開発は継続している。ITRON系OSは組込みOS としての安定性が評価され、「はやぶさ」などの人工衛星をはじめJAXAの宇宙開発事業で多く採用されるようになった。一方で、ユビキタス・コンピューティング時代を見据えて「モノの識別」が重要になるだろうということで、ucodeとユビキタスID技術の開発と普及も進めてきた。食品トレーサビリティや自律移動支援プロジェクトでは、携帯端末での電子タグの読み取りと情報表示、ルート案内、音声ガイドなどの実証実験が繰り返された。これらは今やスマートフォンを使って誰もが当たり前に利用できるようになっている。

2010年代以降はコンピュータの進化やインターネットの発展と連動して、TRONプロジェクトはAPI連携やオープンデータなど、現在の情報処理に欠かせない基盤にシフトしている。

海外との連携

初期のTRONプロジェクトは、今までにないものを作ろうという意欲、イノベーションの気風、新しいものをここから生み出すという意識が非常に強かった。まだスマートフォンというものがなかった時代に、電話とコンピュータが融合したらどうなるのかということに関しても、今でいうスマートフォンの原型となるようなさまざまなアイデアを出していた。

たとえばユビキタス・コミュニケータ(UC)を開発してアジア地区へ展開した。中国、台湾、インド、シンガポールなどの東南アジア、韓国などへも盛んに行って、そうした地域の産業を増強させるためにTRONを伝道した。TRONWARE創刊からちょうど10年が経った2000年ごろは、中国に何度も足を運んでいた。このころの中国は今と違って国を開いて成長しようとしていた。また、韓国からたくさんの留学生を研究所で引き受けていた時期でもあった。

TRONプロジェクトのオープンアーキテクチャという考え方は組込み分野では画期的だったので、IEEEからは高く評価してもらっていた。TRONシンポジウムはIEEEの協力のもとで早くから国際会議となった。さらにIEEE Computer Society Press からTRON の仕様書が発行されたり、TRON Symposiumで発表された論文がIEEEのXploreに掲載されたりするなど、多くの支援を受けている。また、プロジェクト初期には、Springer-Verlagというヨーロッパの出版社からもTRONプロジェクトの技術書を数多く出版した。

TRON が世界のいろいろなものに影響を与えてきたのは事実である。「なぜUC が今iPhoneやAndroidのようになっていないのか」と言われるが、TRONは研究プロジェクトであり、アイデアはかなり前から出していた。TRONプロジェクトの論文や仕様書を英語に翻訳して情報を出していたので、海外でまったく見られていなかったということはない。アメリカをはじめとして世界中のいろいろな学会で話したときに、「Kenがこういうことをやっていたのはみんな知っている」と言って
くれた人もいた。

2023年に、IEEEからIEEE Masaru Ibuka Consumer Technology Awardを頂いた。コンシューマーエレクトロニクスの世界に長年影響を与えたことが受賞の大きな理由の一つだという。この受賞は、TRONプロジェクトがオープンアーキテクチャを進め、世界に大きな影響を与えてきたということのエビデンスとなるだろう。

次の10年へ

創刊30周年のVOL.180では「VOL.200が出る3年半後には、日常生活、社会生活にTRONプロジェクトが当初描いていたHFDS(Highly Functionally Distributed System: 超機能分散システム)が社会を支えているだろう」と予測していた。

TRONの組込みOSはIEEE 国際標準「IEEE 2050-2018」となった。さらに最新のT-KernelやμT-Kernelのソースコードや開発環境はGitHub から全世界に公開されている。IoTを実装するための、未来の住環境やオフィス環境を支える「ハウジングOS」や「ビルOS」といった情報基盤の構築も進んでいる。歩行者移動支援のためのプロジェクトは、自動走行ロボットにも応用されつつある。3年半前の予測に沿ってTRONは着実に前進してきたといえる。

光による革新的技術であるIOWN(Innovative Optical and Wireless Network)構想を実現するためにIOWN Global Forumという国際的な団体とトロンフォーラムとの連携が始まろうとしている。さらに、昨今破竹の勢いで進化を続けているAIのテクノロジーへの取り組みも欠かせない。これからのTRONプロジェクトにも引き続き注目していただきたい。

TRONWAREでは、これからも常に国内外の動向に目を向け、新しい技術や応用に関する有益な情報、学習教材をいち早く提供していきたい。ぜひ今後ともご愛読いただければ幸いである。

坂村 健

編集後記特別編

科学と社会の間で:変化を受け入れ、変化を導くために

対話AI元年

言葉で依頼して言葉で答えられるような作業なら何でも、それなりのレベルで答えを数秒で返してくる対話AI。そういうAIを、誰でも気軽に使える「AIのコモディティ化」──その元年になったのが今年2023年だ。昨年の11月にOpenAIから公開された対話AIのChatGPTは急速に成長し、月間ユーザ数は今年1月にはすでに1億人以上。ほんの3か月でこれほどの伸びは、変化が激しいといわれる情報通信の世界でも異常だ。

早速、OpenAIに多額の資金を注ぎ込んだマイクロソフトが、新ブラウザでChatGPTの機能と検索を統合して限定公開した。対抗してGoogleも社会的リスクがあるとして社外に出していなかった、より高性能とも噂される独自の対話AIを順次サービスに組み込んでいくと発表した。これがほんの数日のうちの動き。

その後、マイクロソフトが検索に組み込んだChatGPTの最新版(実はGPT-4の初期版だったといわれる)が、訓練不足で「正気を失って狂ったようにまくし立てる」とか「ユーザを侮辱してくる」といった報告があり、すぐに機能制限がかけられ、いわばロボトミーされた状態となった。

しかし、3月には本家OpenAIから正式にGPT-4が公開され、推論と自然な会話の精度も上がりマルチモーダルで画像も対話に取り入れられるなど大きな進歩に皆驚いた。しかし、それだけではなく、1月以降の訓練の成果かどうかは定かではないが、道徳規制も相当強化された印象で、簡単にはおかしなことを言わなくなっている。それによりマイクロソフトも次のステップとしてOfficeに全面的にAIを導入するとしているし、GoogleもWorkspaceに同社のAIを導入し、さらにAIを使ったサービスを簡単に構築できるGenerative AI App Builderを提供するとしている。この勢いだと数年で、今、検索エンジンを使うような感じで皆がAIを使う社会になりそうだ。

1月のマイクロソフトの発表会では、インドで文盲や少数言語しか使えないデジタルデバイドの農民が、対話AIと音声のみで行政サービスにアクセスして相談を行い、それまで知らなかった農業支援を自分で申請して完結できるという進行中の実証実験の例が紹介された。窓口の完全ネット化すら「使えない老人はどうする」問題で抵抗される日本のずっと先を行っている。

DXどころか、すぐAXに

DX(デジタルトランスフォーメーション)すら遅れている日本に、いわばAX(AIトランスフォーメーション)の波が押し寄せてくる。

インターネットが普及し、社会の「やり方」自体の改革が唱えられ、教育が従来どおりではダメだという議論になり、日本でプログラミングが初等中等の義務教育に盛り込まれたのが2020年。議論から学習指導要領改訂まで実に10年以上。そのスピードでは今回の変化にはとても追いつけない。今の小中学生が社会に出るころには、すべての分野でAXが当然になっている。その子どもたちにAI対応の教育を提供するなら、数年でのスピード対応が必要だ。

世界の教育界はすでに対応しはじめている。オーストラリアは公立学校で対話AIの利用を遮断すると決定した。一方、シンガポールは利用を後押しするための「指針とリソース」を教育関係者に提供する。教育でのAI利用に関して、米国は否定的な立場を取り、イギリスは推進する方針を表明している。旧大英帝国圏とはいえ対応はまさに正反対に分かれている──とはいえ、少なくとも政策判断のスピードが早いのは、アドホックを基本とする英米法の国ならではだろう。一方、今でも日本の文部科学省の具体的な動きは見られない。

AXの時代にどういう力が求められるのか。マイクロソフトの発表では、ある会社の決算発表をネットで調べて要点をまとめ同業他社との比較レポートにするのを、まるで人間の部下に指示する上司のような数回の対話でできている。つまり、指示されて調べてまとめるような作業は、AIで置き換え可能だということだ。また、それを他の言語に翻訳させるのも一言。比較レポートだけでなく、たたき台には十分な企画提案も一言。

確かに、教育現場では生徒の学習度合いを把握するために、AIと切り離しての評価も必要かもしれない。しかし社会に出てからは総体としての生産性向上が求められる。「ワープロより手書き」のような、自ら手を縛り生産性を落とす決断をビジネスの現場でする時代錯誤は、さすがの日本でも、もはや許されない。となれば、人事評価もAIとバディでの生産性──部下をうまく使えるかと同じでAIをいかにうまく使えるかが基準になるだろう。いくつかの大学の教育現場から報告されているが、ChatGPTを学生に自由に使わせても、レポートの課題設定によって能力差はきちんと出るという。バディでの生産性は、能力評価の基準に十分なり得るということだ。

AX時代の教育

AIが「解く力」を担う時代には、昔から日本の教育の課題といわれる「問題を解く能力より、問題を設定する力」の強化が最優先になる。

具体的に言うと、たとえば英語教育だ。翻訳AIはどんどん高度になっており、最近は筆者も海外との電子メールは日本語で読み書きしてほとんど問題ない。こうなると実感するのは、ハイコンテクストなコミュニケーション能力の重要性。翻訳が完璧だったとしても、文化の違う相手とでは根本の部分でミスコミュニケーションになっていることがある。日本人ならやるのが当然と思うような配慮を、「契約に書いてないからやっていない」と平然と言われるのが海外だ。

そうしたビジネス慣習まで含む、文化や習慣などのハイコンテクストなコミュニケーションスキルを教えることの重要性は、今後どんどん大きくなるだろう。当然、同じ英語でつながれるビジネス圏でも米国とヨーロッパとインドでは、ビジネス慣習の部分は全部異なる。「世界では日本の常識は通用しない」というところからはじめて、世界の地域性の教育という意味では、社会科との連携を考えてもいいかもしれない。

また、せっかく2020年から始まったプログラミング教育だがこれも見直しが必要だ。すでに米国のトップハッカーが自分のコードの80%はAIに書かせていると言っている。どんなプログラムにも似たパターンがネットにあり、新規性がないような部分のコード生成や、デバッグ、説明コメントなどはAIにやらせることで、生産性が5倍ぐらいになっているとのことだ。そういう人たちが開発しているから、AIを含むシステム進歩のスピードは今後さらに加速する。先日、実行からエラーコード読み取りデバッグまでをAIが自動で繰り返し、プログラムを完成させるシステムも公開された。まさに、自分で自分を賢くするAIという「シンギュラリティ」一歩手前のような状況だ。

プログラミングを学ぶ意義

AIによるプログラミングはどんどん優秀になるので、プログラムを書く能力の比重は下がるだろう。一方、自然言語で仕様を指示してAIがプログラミングしてくれるようになるということは、むしろすべての人にとって仕事や生活を便利にするために自分専用のプログラムを作ることがより簡単になるということでもある。そのとき重要なのは正しくやってもらいたいことを伝える、AIとのコミュニケーション能力だ。

プログラムは数式と違い手順を伝える人工言語であるため、相手のシステムが、その時点で何をどこまで「知って」いるかを常に意識していないといけない。また数式と違い時間軸があるため、その進行度合いにより、他のシステムやモジュールの中の状態がどう変化していくかへの意識も必要になる。その意味では、相手を慮ってのコミュニケーションがプログラミングでは常に求められる。

対話AIが昨年突然飛躍的に優秀になった要因の一つは、日本語や英語など自然言語のデータと一緒に、公開されているさまざまなプログラムを学んだからではないかという説がある。つまりプログラムが思考の枠組みとして、長い「思考の連鎖」を維持する能力をAIに与えたのではないかというのだ。

また、特定の目的を持つチャットボットとしてChatGPTをカスタマイズする際に、プログラム言語の枠組みを利用して指示を設定することで、精度が向上するという手法が最近発表された。鼻歌で作曲できる人もいるが、音楽の仕事をする際に他のスタッフとやり取りするために楽譜という人工的な表現言語を学ぶほうが効率的であるのと同様に、AIと共に仕事をするときも人工的な表現言語のプログラミング言語を必要に応じて使ったほうがいいということだろう。

つまりは、長い手順をきれいに考え、仕様として整理して伝えることを学ぶなら、やはりプログラミング言語を学ぶほうがいいということだ。その意味では、プログラミング言語含め、すべてコミュニケーションの学習に帰着する。AIが自然言語と同時にプログラミング言語を学び、高度化するなら、プログラミング教育と国語の連携も考えてもいいかもしれない。

今の子どもたちは、AIの進歩だけでなく気候変動・災害・疫病・紛争など、予測不能の時代に立ち向かうことになる。その意味でも、ネットの中に答えのあるようなことを答える能力ではなく、過去に例のない状況でも、自分で問題設定し、言葉にして解決策を模索し、他に伝える能力の教育がより強く求められる。AIの加速により、せっかくの教育改革も第二弾が待ったなしなのだ。

科学と社会の間で

教育改革を始めとして、科学技術が進み変化の必要性が見えてきても、社会は急には変わらない。

たとえば、ここ最近は科学技術の分野で、特にAIをはじめとする多くの進歩があった。パルクール(走る・飛ぶ・登るなどの動作)するロボットや逆噴射で着陸するロケットなどが次々と現実になっている。また、量子コンピュータや核融合技術の進展も注目されている。子供のころから親しんできたようなSF技術がどんどん現実のものになってワクワクする。特に対話AIは、生きているうちにAIとチャットで気軽にやり取りできるようになるとは感無量だ。

しかし、残るSF技術のリニアモーターカーで東京から大阪を移動したいという願いは、残念なことに先行き不透明。工事が遅れると生きているうちに乗車できなくなるかもしれない。この問題もそうだが、本来の技術的課題とはまったく違う理由で、科学の進歩が活かせないという事態が、特に残念に感じられたのもここ最近だ。

東日本大震災後の放射能に関する風評被害、危険な健康法の跋扈、ワクチンに対する無理解、そしてコロナ絡みの医療デマ、マイナンバー利用の過剰制限など──これらの出来事には、「自然や伝統は良く、人工や進歩は悪」という素朴なレガシー信仰のようなものが共通しているように思われる。

確かに1970年大阪万博のころのような素朴な科学技術信仰は、もはやありえないだろう。公害問題からはじまり気候変動まで、現実の世界では科学技術の発展により常にあちらを立てればこちらが立たずで、スッキリした解決策はない。だからレガシー信仰に帰依したい気持ちもよく分かる。しかし、ウクライナ侵攻や相次ぐ災害やパンデミックが示したように、人の善意と理性、そして自然の優しさと安定も、また同様に信じられないことも、ここ最近あらためて明確になっている。

よりよく変わるために

科学技術が世界を不可逆的に変える中、変わりたくないという気持ちは人間の自然な感覚だ。人々が「自分が死ぬまで、世界を変えないでほしい」と思う気持ちも理解できる。しかし、変わらない社会は腐敗する。そして変化に対する柔軟性を失い、パンデミックなどによって大きな痛手を被ることになる。まさに、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」に登場する赤の女王が言うように「その場に留まるために、絶えず変化しなければならない」というわけだ。

今話題の対話AIで言うなら、確かに現状ではいろいろな問題もある未熟な技術なのも事実だ。AIによりマスコミで人間の雇用が失われ、ネットがそれに取って代わる。そこにAIの生むフェイクが氾濫すれば、ファクトが軽視され民主主義が破壊されるとまで危惧する向きもある。

実際、人々の働き方が大きく変わるのは確かだ。職種によっては消滅するだろう。社会も大きく変わらざるを得ない。そのインパクトは、今は画面の中だけの「革命」なので機関車などと違い変化がイメージしにくいが、蒸気機関による産業革命と同レベルともいわれるほど、本当に社会が変わる。

しかしそれが民主主義の破壊にまでつながるかどうかは、あくまで我々次第。AIが決めることではない。質問されて答えるAIは賢くても究極の「指示待ち君」。そして良い指示ができる人間が使わなければ、良い結果を出すこともできない。次の時代の人間の仕事は、そういうものになる。「こうしたい。こうなりたい」という「欲」は、AIには持ち得ないからだ。

繰り返しになるが、変わらないことは不可能。そうである以上、より良く変われるよう方向付けること──それこそが人間の役割なのだ。

坂村 健

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